第26章 ヘティ、テキサスの鉄道を買う(後半)

  この路線は、元々ガルベストン・アンド・テキサス・セントラル鉄道として知られていた。それは、テキサス州で最初の鉄道企業の一つであり、州の中心部をデニソンまで直進した。その蒸気機関は、南北戦争以前は長年、メスキート木を燃料にしていた。1880年代初めには、利益とスポーツのために貨物列車の一つを襲撃して壊滅させることを考える人もいた。彼らは時刻表に関して十分に知らされておらず、彼らが線路上に置いた障害物に旅客列車が衝突した。死傷者は多数にのぼり、裁判所は損害賠償のためその鉄道会社を管財人の管理下に置いた。

  列車が壊れたことが、鉄道会社が債務不履行に陥った真の原因だった。そして、その結果、ニューヨークのジョン・J・シスコ・アンド・サン銀行で、あの悲惨な事件が起こった。グリーン夫人がウォール街に出向き、夫を追放した。時は流れ、列車を取り巻く状況が魅力的になった今でも、食べ物その他の物を狙って列車を前へ後ろへと追跡する解体業者がいるのは面白い。

  グリーン夫人は、全部ハンティントンのせいだと何度も何度も言ったが、彼に対し列車事故の責任を問うことは難しい。他の事故に対してどんなに責任を問えたとしてもだ。再編委員会は、1885年以降、ニューヨークでヒューストン・アンド・テキサス・セントラル鉄道を建て直し不動産賃貸料を支払えるようにするため奮闘した。農業金融信託会社は一番抵当に対し貸し付けしてきたが、資金調達のため債券保有者を募集するようになった。その債券は不動産担保を裏づけとして発行された。農業金融信託会社はヘティ・グリーン夫人に宛てられた古い封筒を受け取った。ヘティの名前の上には「25万ドル」と鉛筆で書かれていた。職員はそれを見ただけでグリーン夫人が額面1000ドルの債券を250通、所有していることがわかった。一日ほどたってから、ヘティは農業金融信託会社の利子を独立して扱うことを提案したと債券保有者委員会に通知した。

  1892年3月にワコの裁判所は54マイルの鉄道区間を競売にかけ、12月にネッドはハンティントンの代理人クラットシュニットより高い値を付け落札した。

  この時からハンティントンは戦いを始めた。ハンティントンはその鉄道区間を手に入れたがっていた。グリーン夫人は単にハンティントンの進路に足を踏み入れただけだった。ハンティントンの最初の行動は、合衆国巡回裁判所への請願の提起だった。それは鉄道の管財人(ハンティントンの速記者の一人)が鉄道不動産について96313ドル87セントの抵当権を保有していたという内容であり、それらの抵当権は売却資産として記載されていなかった。

  グリーン氏、というよりむしろテキサス・ミッドランド鉄道のグリーン社長は、入札した資産に抵当権は記載されていたと返答した。ネッドは、もし抵当権の記載がない場合は入札を撤回したいと言い、そうするために裁判所の許可を求めた。

  ハンティントンはグリーンが撤退することは許されないと強く主張し、第二の訴訟を提起した。そこで、グリーン親子が入手した鉄道に対して(表向きは)様々な告訴人から訴訟の洪水が提出された。ワコの議会に 国から会社に供与された州内の鉄道付属地を全部没収することを許可する法案が提出された。新しい所有者は、明らかに絶望的な訴訟の激流に巻き込まれた。それはヘティ・グリーンとその息子にはあまりにも大きかった。ハンティントンは事件を酷くもつれさせたので、新しい所有者は、掘り出し物に関する疑惑をはっきりさせることを望んだ。

  ハンティントン氏はテキサス州に強い影響力を持っていると思われた。1893年3月14日、裁判所は売却を承認し、ネッドが買った資産には抵当権の記載がなかったと判決した。

  ヘティ・グリーン夫人は、生涯でたった一度の不注意な買い物をしてしまったかに見えた。テキサスの鉄道は、1マイル当たり1万240エーカーの気前のよい土地供与に助けられ建設された。当時、土地は鉄道会社の資産のかなりの部分を占めていると思われた。グリーン氏は、支線と一緒に買った土地の権利はひどく混乱しているので、所有しているとは言い難いと報告した。謎の人物がわざと混乱させているように思われた。1人の相手どころではなく、テキサス州の2、3の郡の中に千人の敵がいるようだった。ネッドは助言を求めるため、母に電報を送った。

  ネッドは契約した金額の支払いを渋ることにした。それは、多分、へティの指図だった。ヘティはネッドにお金を渡さなかったのだろう。とにかく、裁判記録によると、ハンティントンが裁判所に提出した書類はE・H・R・グリーンに軽蔑の念を抱かせた。しかし、ネッドは、安すぎる買値を提示したために発生した損害は全て負担するという条件で鉄道の売却を依頼した。

  サザン・パシフィック鉄道を邪悪なタコと見なすカリフォルニアの人々は、ハンティントンと戦うグリーン夫人を英雄視した。グリーンとハンティントンの戦いの最中、グリーン夫人がケミカル・ナショナル銀行で玉ねぎをかじり気炎を上げていたある日、カリフォルニアから1個の小包が届いた。その中には、44口径の回転式連発拳銃と革袋が入っていた。それは、西海岸に住む熱心な支持者からの贈り物で、もしサンフランシスコに来ることがあれば盛大な歓迎を約束するとの手紙が添えてあった。その約束についてヘティは「もし、私がサンフランシスコに行ったら、1万人以上の人が駅に集まり、ハンティントンに対する勝利に向かって共に行進し、太平洋岸の人々に対する彼の極悪非道な仕打ちを罰しただろう。」と何度か語った。グリーン夫人がその強敵とあいまみえた日、手に取ろうとした拳銃は、その時贈られたものだっただろう。

  期日到来によって、ひどく困難な状況にある息子を助ける気がグリーン夫人にあるかどうか確かめるため、ハンティントンは、ケミカル・ナショナル銀行に行った。グリーン夫人は友人のチャールズ・W・オグデン夫人に語った。彼女の夫は、ダラスの弁護士で、テキサスでのネッドの法律顧問だった。

  ヘティによると、ハンティントンは、曲がったつばにフサフサの飾りがついたシルクハットを、実に見事な頭にかぶって銀行に入った。ハンティントンは、ヘティとしばらく言い争った後、ネッドを牢屋にぶち込んでやると言った。その時、一本のダイナマイトのようにヘティの怒りが爆発した。

  「ハンティントン、今まで私は、商売人としてあんたと取引してきたけど、今、あんたは母親としての私と戦っているんだよ。ネッドの髪の毛一本でも傷つけたら、あんたの心臓を打ち抜くよ!」ヘティは怒りに燃えた瞳を机の上の拳銃に向けた。 

  グリーン夫人は、笑いながらオグデン夫人にその話をした。ハンティントンはとても急いで銀行を出たため、シルクハットを落としてしまった。ハンティントンは帰ってこなかったため、ヘティは銀行員にシルクハットを届けさせた。オグデン夫人は、その事件は実際に起こったことだと信じた。なぜなら、オグデン夫人によると、グリーン夫人は、しばしば、けんかをした時に、殺すぞと相手を脅していたからだ。

  ヒューストン・アンド・テキサス・セントラル鉄道の訴訟は数年間続いた。それは、グリーン夫人とその息子にとって出費と心配の種でしかなかった。しかし、ヘティは、コリス・P・ハンティントンを数回に渡って叩きのめしたことを、いつも自慢していた。1895年3月、ネッドへの売却は裁判所の命令により却下され、預託金が返ってきた。2回目の競売は、1895年9月にワコで実施された。この時は、ハンティントンの代理人が最も高い買値を提示した。他の入札者が提示した額は全て150万5千ドルだった。数ヵ月後、ネッドは裁判所に相談料2万5千ドルの払い戻しを求めた。結局、1万899ドル55セントの払い戻しが認められたが、それさえも、合衆国最高裁判所に持ち込まれ、却下された。裁判長フューラーは、下級裁判所の判決を覆した。グリーン親子は何も取り返せなかった。この経験から学んだヘティは、最高裁判所は今までヘティが取引してきた相手と何も変わらないと断定した。しかし、その後、ヘティはハンティントンと全く関わらなかった訳ではない。ヘティはできるだけ詳しくハンティントンの活動を調べ、ついに1899年、ハンティントンが、ある銀行から多額のお金を借り、数週間返済が遅れていることを突きとめた。

  グリーン夫人は、その銀行に預金を始めた。銀行の取締役は、ヘティの預金が160万ドルに達した時、大喜びした。ハンティントンのような野心的な借り手は、その預金を少しも残さず利用した。

  ある日、ハンティントンがまだその銀行から借金をしていることを確認したヘティは、銀行の事務員を呼んだ。
「私のお金をおろしに来ました。」ヘティは言った。
「いつ、ご希望ですか?」
「できれば、今、小切手ではなく現金でお願いします。」
「しかし、グリーン夫人、それは無茶です。銀行の仕事は、お金を貸すことで、金庫室にお金を積み上げたままにしておくことではありません。予告なしに150万ドルの引き出しは、冗談にしては度が過ぎています。いったい、どうなさったのですか?」
「私は年寄りなので、不安なのです。あなたがたが疑わしい相手に融資していると聞いたもので。」
「何をおっしゃいますか、グリーン夫人。我々の融資先は、全て優良です。」
「しかし、私がどうしようもなく不安なことには変わりありません。私のお金を返してください、現金で。お願いします。」

  グリーン夫人は、お金を引き出した−ウォール街では、そう信じられている。銀行の使いの者がハンティントンの事務所に派遣された。ハンティントンの要求払い約束手形のうちのいくつかが請求された。続いて、ハンティントンが深刻な困難に陥ったとのうわさが流れた。相変わらず、次の日もハンティントンは仕事を続けた。しかし、彼に逃げ道は残されていなかった。翌年、ハンティントンは死んだ。グリーン夫人は、ベロウズフォールズの自宅で、ハンティントンの死を知らせる新聞記事を読んだ。隣の部屋では、ヘティの元夫が、ベロウズフォールズ貯蓄金融機関のアーサー・ウィリアムズの訪問を受けていた。ウィリアムズ氏は、ハンティントンが死んだ時、グリーン氏(ヘティの元夫)が、その億万長者のことを偉大な建設者と言っていたのを覚えている。グリーン氏がこれらの賞賛の言葉を述べている最中に、隣の部屋から歓声が聞こえた。グリーン夫人が、2人のもとに突進して来て言った。「あの老いぼれ悪魔のハンティントンが死んだ。自業自得よ。」ヘティは、しばらくの間その死んだ敵をののしり、喜び続けた。

  その時までに、ヘティは、ネッドの出世を大いに喜んだ。ネッドは数年の間ずっとテキサスの共和党の重要人物だった。ネッドは知事になろうと望み、その野望は実現しなかったが、名誉大佐の称号を手に入れた。ネッドは、州政府の役職を与えられた。それを聞いたヘティは言った「ネッドはよくやっている。」

  放牧場を横切る柵のない鉄道を、しばしば不思議に思ったテキサスロングホーン牛は「牛捕り」と正しく名付けられた機関車の部品に当たって死んだ。牛の所有者は、損害賠償請求の書類にほとんど必ず、死んだ牛は放牧牛の飼育を改善するためにテキサスに導入された特別な牛だったと書いた。そのような請求は、鉄道会社の利益をひどく吸い取ったようだ。テキサス牛の所有者に屈することによってテキサス・ミッドランド鉄道への借金が返済された時、それらの牛は、テレル付近の柵で囲まれた土地で飼われていた。それゆえ、テキサスの牛飼いが馬に乗って町に入り死んだ牛を探し求めた時、グリーン氏は速やかに牛飼いと示談した。損害賠償請求者は、それぞれ、囲い込まれた牛の群れに行き、好みの牛をロープで結んで持って帰ってよいことになった。ヘティは、時々、そのことをネッドの賢さの証拠として語った。

  ベン・ギルは、ネッドがテレルで作った友人の一人だった。ヘティの息子を通して、ギル氏はニューヨークのシーボード・ナショナル銀行に人脈を作った。その金融機関にグリーン夫人は投資していた。ギルはその銀行の副社長になり、その地位に10年以上居続けた。ギルは、ネッド・グリーンが、一度、自身が所有する小さい鉄道会社の職員の集会を開いたことがあるのを覚えている。その集会の集合写真はニューヨークに送られ、グリーン夫人はギルにその写真の人物一人一人について話すよう頼んだ。ギル氏は、鉄道会社の職員のうちの一人で微笑みを浮かべる大男に対してヘティが強い懸念を示したことについて語った。

「ダメだ。」ヘティはその男の写真を節くれだった指で叩いて言った。「彼は、微笑み過ぎている。私が弁護士に会いに行く時、弁護士はいつも微笑んでいる。度を越して微笑んでいる奴は信用できないよ。」

  ある時、ネッドはヘティから聖書のいくつかの警句の写しを受け取った。それは、ヘティがニューヨーク・セントラル銀行のチャンシー・デピューからもらったものだ。ヘティは、テキサス・ミッドランド鉄道の優待乗車証(pass)をネッドに申請する人々がいる問題について友人のデピューに話した。この件について、次のような暦が作られた。

月曜日−「汝渡るなかれ」民数記20章18節
火曜日−「一人も渡ることを許さざりき」土師記3章28節
水曜日−「邪なる者重ねて通らざるべし」ナホム書1章15節
木曜日−「今の代は過ぎ行くことなし」マルコによる福音書13章30節
金曜日−「これを永遠の限界となし、渡ることを得ざらしむ」エレミヤ記5章22節
土曜日−「過ぐるものなかるべし」イザヤ書34章10節
日曜日−「その価を給へ行かん」ヨナ書1章3節


ヘティ・グリーン研究
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