第22章 ヘティ、夫を蹴落とす(前半)

  エドワード・ヘンリー・グリーンは愚かな投機を繰り返し、自分の財産と妻の信頼を失った。最初の15年間に限れば、グリーン夫妻の結婚は、ヘティが結んだ他のどの契約よりも満足のいくものだった。その間、ヘティはエドワードから投資の助言を受け、エドワードは、ヘティの生活に関する考え方に従うよう努力した。しかし、ヘティの警告を無視して、エドワードが破産し、ヘティからお金を借りた時、ヘティはエドワードと別居した。それはヘティにとって惨めな数年間だった。夫を失い、もう少しで息子も失うところだった。

  エドワードとヘティがお互いに仲良くやっていこうとしたことは疑いない。エドワードは浪費ぐせを改める兆候さえ見せ始めていた。それは、エドワードが家族連れで初めてシカゴを訪れた時の行動に現れている。それは、グリーン一家がアメリカに帰ってすぐのことだった。ピーポディー・ホッタリングはへティの父のシカゴでの代理人をつとめ、続けてヘティの代理人をつとめていた。しかし、1877年、ヘティはピーポディーに不満を感じるようになった。そして、グリーン一家は代理人の業務(不動産と不動産ローンがほとんど全てを占める)をチャンドラー社に移す手配をするためシカゴに行った。

  その日、貸し馬車屋は湖の前に沿って連なり、その馬の臭いと馬車は、ミシガン通りへと続く道いっぱいに広がっていた。グリーン一家は、当時ウォーバッシュ通りの角に立っていたマッテソンハウスに泊まった。ウォーバッシュ通りは今はジャクソン大通りと呼ばれている。宿屋の主人は、宿で最も安い部屋の宿代を値切られ憤慨した。宿屋の主人は、グリーン一家の服を見て貧乏人だと思った。さらに、宿屋の主人は、エドワードが売店で葉巻を値切っている声も耳にした。エドワードは、10セントの葉巻を4分の3の値段にするよう値切っていた。店員は他の所に行く用事があったので譲歩した。1877年の時点では、葉巻1本に10セント支払うのは誰にとってもぜいたくだった。見方によっては、ヘティは多数派の一人にすぎなかったといえる。

  グリーン一家がシカゴに着いたのは冬だった。グリーン家の子供たちは、遊び道具として 鶏 と そり を持っていた。後にその そり でネッドは足を怪我した。鶏は、ネッドに乱暴に扱われ、次第にうんざりするようになり、おとなしくなったと思われる。鶏は本能に従って卵を産むようになるまで、ベッドの下ですねていた。鶏は他の本能にも従ったので、ホテルの従業員は憤慨するようになった。外出先から戻ってきたとき、グリーン一家は鶏が死んで硬直しているのを見つけた。鶏の首は強くねじられていた。グリーン一家はただちに手続きを済ませ、ホテルを出た。次の日、グリーン一家がセントルイスに行ったと新聞で報じられた。その記事には、その奇妙でみすぼらしい客(グリーン一家)を見るために来た人が、シカゴの最初の市民のうちの一人、ポッター・パルマ−であることがわかり、宿の主人が驚いたことも書かれていた。

  その後、グリーン一家はポッター・パルマーのホテルに滞在した。そのホテルは以前パルマーの家だった建物で、醜さと壮大さの点でロンドンのランガムに似ていた。ヘティは、ホテルの食堂と理髪店の床にドル銀貨が敷きつめられているとの話を耳にした。エドワードは、食堂と理髪店に実際に行って確かめて、その話は誇張だとヘティに報告した。床の銀貨はまばらで、部屋にいる人の足の数より少ないと。ドル銀貨は、床の大理石の角に埋め込まれていた。抜け目のないパルマーは数百ドルの経費で何千ドルもの宣伝効果を得ていた。にもかかわらず、それは最も邪悪な種類の浪費だと思われた。ドル銀貨が埋め込まれた床は、ヘティを興奮させる効果があった。ヘティの息子ネッドが枕叩き(枕を使ったチャンバラ)で枕をかなり傷めたことについて、経営者が苦情を言った時、ヘティはネッドが壊した枕を全部弁償した。「ネッドの体を鍛える必要があります。」とヘティは言った。

  当時、シカゴでのヘティの財産の管理を任されていたチャンドラー社は、ヘティの旧友でバーモント出身のレイトン・R・チャンドラーが経営していた。チャンドラーは少しの間、パットニーで雑貨屋を経営していたが、1849年、ベロウズ・フォールズ、ブラルドロ間に建設された新しい鉄道の管理人になった。チャンドラーはベロウズ・フォールズのアイランドハウスに泊まったことがあり、その時に、エドワードの父、ヘンリー・アトキンソン・グリーンと友達になった。その後、エドワードが東洋から帰ってきた時にエドワードとも会った。

  1877年にエドワードが、ヘティの事業を移すためにヘティを伴ってチャンドラー社を訪れた時、ペイトンは、37歳の息子フランクを共同経営者にしていた。フランクは、ヘティのシカゴでの生活や冒険に関する最も信頼できる生き証人だ。フランクはヘティの人柄に好意的な印象を持っている。ヘティは12年間にわたって、チャンドラー社の事務所で、シカゴの周辺に住む債務者からお金を受け取った。ヘティは、ペイトン・チャンドラーを強く信頼していた。ペイトン・チャンドラーには及ばないもののフランク・チャンドラーも強く信頼していた。ペイトン・チャンドラーは時々、ヘティに秘密の任務を頼まれ、サンフランシスコに行った。ニュー・ベッドフォードに派遣されたこともあった。

  その後数年間、グリーン一家は頻繁にシカゴに行った。ぜいたくに旅をした。まるでヘティが苦痛を伴わずに使える種類のお金を発見したかのようだった。ヘティは鉄道の貸し切りの客車で旅をした。それはルイヴィル・アンド・ナッシュヴィル株の一種の株主優待だった。ヘティの夫は、ルイヴィル・アンド・ナッシュヴィルの役員を何期もつとめた。その客車はヘティの夫の役得だった。エドワードの姪エルメンドルフは、グリーン一家が旅行を派手にするため、時々近くに住む親類を招待したことを覚えている。

  ヘティは、外国にいる間に、ルイヴィル・アンド・ナッシュヴィル株を大量に買ったのだとヘティの友人達は思った。しかし、ルイヴィル・アンド・ナッシュヴィルの年次株主総会の記録には、1879年までヘティの名は出てこなかった。1879年10月、エドワード・グリーンはルイヴィル・アンド・ナッシュヴィルの株主総会で90,605株の投票権を行使したが、そのうちにの29,000株はヘティが投票権を委任したものだった。この時、エドワードは、副々社長に任命され、さらにその2ヶ月後に副社長になった。エドワードは1880年の3月から12月まで副社長をつとめた後、社長になった。ルイヴィル・アンド・ナッシュヴィル鉄道のグリーン社長、ルイヴィル・アンド・ナッシュヴィル鉄道の社長の妻、これが公式な場でのグリーン夫妻の肩書きだった。グリーン夫妻がどんなに金持ちだったとしてもである。エドワードは社長として、華やかな仕事をこなした。しかし、全ての栄光は流れ星の光のように過ぎ去った。3か月後、エドワードに代わり、C・C・ボールドウィンが社長になった。歴史には、支配者層の変化に関することが書かれてきたが、その中には、ルイヴィル・アンド・ナッシュヴィルが象徴するほどには、多くの人々の命に影響を及ぼさず、多くの富も動かさない事件について書かれたものもあった。しかし、今となっては、エドワードが社長を退いたのがヘティのせいなのかどうか、あるいは、エドワードの次に社長になったボールドウィンの強力な支持者のせいなのかについて語る人はいない。これは、忘れられた歴史である。

  1879年以後、増資が議決された。そして、1881年にエドワードはまだ取締役だったが、95,000株の投票権を代理で行使した。その株はほとんどへティのものだったと思われる。1883年、エドワードは68,000株の投票権を行使した。しかし、翌年、エドワードはわずか100株の投票権しか持っていなかった。1885年、エドワードは取締役を退任したが、その頃、エドワードとヘティの仲は、会ってもほとんど口をきかないほど悪化していた。

  ルイヴィル・アンド・ナッシュヴィルは安定した配当がもらえる株であり、当然、ヘティはその事に強く印象付けられた。1850年にルイヴィル・アンド・ナッシュヴィルは株式会社となった。1859年にルイヴィルからナッシュヴィルまでの路線が操業を開始した。ルイヴィル・アンド・ナッシュヴィルの列車は、今まで馬でしか旅をしたことがない立派な紳士たちを乗客として運んだ。紳士たちは、拳銃をわきの下にしのばせるか、ボーイ刀を帯びていた。そのため、彼らのうちのかなり多くの者は、いつも懐に右手を入れていた。彼らのうちのほとんど全員が、馬に乗って峠を越えた。立派な紳士だけが、このような時にお金を払って列車に乗った。

  もともとは、ケンタッキーとテネシーの多くの人々がルイヴィル・アンド・ナッシュヴィル株を持っていた。しかし、そのうちの多くがロンドンで売られてしまった。その時、南北戦争が起こり、この会社の鉄道がかなりの軍事的意義を持つようになった。南軍は、使える限りの鉄道を押さえた。北軍はケンタッキーでルイヴィル・アンド・ナッシュヴィル鉄道を制圧した。貨物倉庫は軍需品で満杯になった。オハイオ、ミシガン、インディアナ、イリノイ、ウィスコンシンから、薪を燃料とする蒸気機関車が、兵士を乗せた列車を引いてきた。他に負傷兵、馬、ラバ、まぐさ、肉、毛布、火薬のための何本もの鉄道があった。青い服を着た将軍達は専制君主のような権力を持った。将軍達は気まぐれと、反乱軍の襲撃への恐れと、その他の心配事によって列車運行の命令を出した。全ての列車運行はルイヴィル・アンド・ナッシュヴィルの売上になった。南北戦争の間、ルイヴィル・アンド・ナッシュヴィルは大いに儲けた。その利益は配当になり、その中のあるものは1867年以降、シスコ銀行のヘティの口座に入った。

  1879年にルイヴィル・アンド・ナッシュヴィル鉄道は総延長973マイルに達し、ルイヴィルの大通りに大きな新本社ビルを建てた。その年、エドワードは取締役となり、以後16ヶ月の間にエドワードは、副々社長、副社長、社長を歴任し、鉄道の総延長を2倍以上にした。買収と賃借によって、1206マイルの鉄道と多くの備品が会社に追加された。エドワードは、グールドやコリス・P・ハンティントンのような鉄道王になろうとした。しかし、エドワードは鉄道の専門家ではなかった。エドワードが退任すると、会社の経営と配当の支払いを続ける実務担当者たちは、すぐにエドワードのことを忘れ去った。

  エドワードの本当の関心は株式市場にあった。

  「エドワードは良い相場師だったが、時々、手を広げすぎることがあった。」ウォール街の投機家として全盛期の頃のエドワードを知る仲買人は、エドワードのことをこう評した。その仲買人の名は、チャールズ・ケリーで、1928年時点で、ニューベッドフォードの証券会社サンフォード・アンド・ケリーの現役の社員だ。「エドワードが自身の財産を失った後でさえ、妻であるヘティの財産をあてにして、ウォール街の人々はエドワードにお金を貸し続けた。ヘティは3、4回エドワードを助けた。ヘティは、何度もエドワードに講釈した。空売りで成功するためには、ひたすら待つことが必要だと。しかし、市場の動向は、何度も何度もエドワードの予想通りになった。エドワードは、ヘティにあまりにしばしば従わないので、ヘティはエドワードを追い払った。」

  1882年に、ヘティは相続した財産を夫が管理していることについて調べ始めた。そのようにヘティ自身が言っている。その年、報告書の書き方とその他の周囲の事情から、ヘティは夫が、ヘティの財産で投資資金をまかなっていると疑うようになった。それは、エドワードがルイヴィル・アンド・ナッシュヴィル鉄道の重役をやめてから少し後の話だ。それでも、その後数年間は決裂には至らなかった。

(後半に続く)


ヘティ・グリーン研究
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