第36章 ウォール街の魔女の死

  1916年7月3日、ネッドが所有する西19番通り5番地のつつましやかな褐色砂岩の家でヘティ・グリーンは死んだ。体が麻痺して不自由になり車椅子を使うようになるまで、ヘティはその家で暮らすことを断固として拒否していた。前年の11月の誕生日でヘティは81歳になっていた。ヘティの死に至る病の原因はけんかだった。

  1916年4月、グリーン夫人は、豪華な家具が付き贅沢な内装のアニー・リアリー伯爵夫人の家で客として暮らしていた。ヘティはその家で、合計すると数年になるほど多くの日々を過ごした。アニー・リアリーはヘティより約4歳年上で、ヘティが嫌な顔をしてもめげずに愛情をもってヘティの家の世話をし、ヘティは救貧院で死ぬだろうと予言した。伯爵夫人はいつも、リアリー家の品のいい食堂の高価な食べ物や執事の奉仕によって、もっと多くのお金を使い快適に過ごし神のために働くべきとヘティを説得しようと努めたが、ヘティはそれを自分の特権だと感じた。

  リアリー伯爵夫人はヘティに対してそれほど腹を立てなかったが、何人かの使用人は激怒した。ある日、料理人が酒に酔った勢いでグリーン夫人に口答えした。ヘティは料理人と同じくらい大声で罵ったが、料理人はヘティ以上に卑しい言葉を使った。グリーン夫人の無言の怒りが脳卒中の原因になったことを除いては、そのけんかの詳細は分からない。数ヵ月後、グリーン名誉大佐(ヘティの息子ネッド)が、相続税法によりヘティの不動産の一部の物納を要求する手続きでニューヨーク州に対して証言した。「母はそこ〔リアリー伯爵夫人の家〕に行って料理人とけんかをしたと私は信じています。その料理人は少し飲み過ぎ、母はその料理人の考えが好きではなかったのだと思います。」

  しかし、グリーン名誉大佐は、19番通りの家で母の死の知らせを受けた時、このけんかについて何も言わなかった。この場面で、ネッドは単に4月17日にリアリー伯爵夫人の家に行っている時に最初の脳卒中が起きたと説明した。

  その発作の後、ヘティの左半身は麻痺し、ヘティは息子の家に戻った。ヘティはその家のベッドと車椅子の上で時間を過ごした。4月17日から6月13日の間、ヘティは5〜6回の発作で苦しんだ。3回を超える発作で生き延びた人は稀だった。ヘティの世話をする看護師は、ヘティの偏見を尊重し、普通の召使よりもはるかに高価な付添い人だと思わせるため、白衣を捨てる必要があった。

  新聞記者たちは、グリーン夫人が危険な状況にあることを知った。6月25日に、ある記者がグリーン名誉大佐にヘティの健康について尋ねた。3日ほど前にヘティは息子、娘と話し、遺言のいくつかの条項を説明した後、自動車で中央公園に行った。

「あなたの母は今、事業に携わっていますか。」記者が尋ねた。
「もし、母が毎日私に指図していると言えば、あなたは信じるでしょう。母は私の事務処理のやり方を叱り、明らかに子供の教育を間違えた、私ならもっとうまく事を運ぶことができた、と言います。」と名誉大佐(当時48歳)は笑って答えた。

  1週間後の早朝、勤務中の看護師が患者の容態の明らかな変化に気付き、グリーン名誉大佐とウィルクス夫人(ヘティの娘シルビア)が母のもとに呼ばれた。主治医のH・McM・ペインター医師も呼ばれた。ペインターは、グリーン夫人は多分、今日中は生きているでしょうと言ったが、ペインターが立ち去ってから30分以内にヘティは死んだ。

  ヘティ・グリーンの最後の鉄道旅行は、ヘティが生きていたら許さなかったような方法で行われた。生前、何度何度も乗り心地の悪い普通車に乗り、硬くなってしまった体は、息子が借り切ったプルマンカーでニューヨークからベロウズフォールズまで運ばれた。白いカーネーションがクエーカーの教義に反する棺の黒い布を覆い隠した。ヘティはエドワード・グリーンのために黒い未亡人のベールを着続けたが、喪服は着なかった。そして、ヘティは生前、エドワードのもとに葬られることを望んでいたため、黒い服を着たヘティの死体はエピスコパル墓地に向かった。

  ヘティの死体を運ぶ車の中に、ヘティの息子、娘、義理の息子マシュー・アスター・ウィルクス、ベロウズフォールズでの友人ハーバート・P・バンクロフト夫人がいた。バンクロフト夫人のニューヨークのアパートにヘティは時々立ち寄った。それは、ヘティの人生を恐ろしい冒険にした目に見えない敵から隠れるためだった。遠い昔、ヘティが家から持ってきたズボンを夫が放り投げた運河を列車が通り過ぎたのは午前遅くだった。駅で棺が車から降ろされた時、新聞記者が群がってきた。

  その後すぐ、葬儀がイマニュエル・エピスコパル教会で行われた。アーサー・C・ウィルソン牧師が葬儀を取り仕切った。合唱団が2つの賛歌「祝福された家あり」、「声が聞こえる」を歌った。その時、ヘティをよく知る(たぶん我々よりも)友人たちが投げる大量の花びらが降り注ぐ中を通って、棺は庭のグリーン家の区画に運び込まれた。ヘティの墓は、エドワード・グリーンのためにしばしば涙を流したその場所のそばだった。反対側の雨風で痛んだ簡素な柱は彼の両親の墓だった。ヘンリー・アトキンソン・グリーン、1792年生まれ1863年没。アンナ・エーモリー・タッカー・グリーン1803年生まれ1875年没(変わった義理の娘と知り合ってから1年以内のことだった)。

  葬儀の後すぐ、グリーン名誉大佐は、ニューヨークの弁護士チャールズ・W・ピアソンを伴い、検認裁判官ワーナー・A・グラハムの事務所に行き、母の遺言書を提出した。そのタイプライターで書かれた9ページの文書に対して、大勢の記者たちが熱心に閲覧の順番を待った。その遺言書は1911年3月28日に書かれ、ホーボーケンのジェイムズ・スミス、フェイ・スミスとニューヨーク州タキシードパークのホフマン・ミラーが証人になった。

  この時、死後の財産処理について決めた母の行動に、ネッドは気付いていなかった可能性がある。ヘティが遺言書に署名した10日後の1911年4月15日、AP通信社から送られた声明によると、確かにネッドは、その遺言書の内容を知らなかった。

  グリーン夫人の息子は、アンドリュー・カーネギーとジョン・D・ロックフェラーの慈善事業に参加するよう頼まれた。

(ネッドの発言、AP通信による)
「2人は疑いなく、富を社会に還元し、国を永久に良くするよう誠実に努力するでしょう。私は、この件について母と長時間、真剣に話し合ったことがあります。そして、母は、時が来れば、我が国の経済状況を改善する努力の前列に加わるだろうと確信しています。」

  1911年にグリーン名誉大佐が話した「その時」は確かに来た、ヘティの遺言書の提出とともに。全ての負債を即座に支払う指示の後、4つの遺贈が尊敬のしるしとして記されていた。バーバード・P・バンクロフト夫人に5千ドル、シルビア・アン・ハウランド(ヘティの叔母)の遺産管理人として尽くしたボストンのエーモリー・A・ローレンスに1万ドル、ニューヨークのルース・ローレンス嬢に5千ドル、そして、義理の息子ウィルクス氏に妻の財産に対する全ての請求権を「放棄したことに感謝して」5千ドル。遺産の残り全ては、息子と娘に平等に与えられた。

  エドワード・モット・ロビンソン(ヘティの父)が1865年に遺した信託をネッドが受け取ったので、それと釣り合うよう、ヘティは娘のために10年続く信託を設定した。ヘティはネッドを見返りなしに信託の管理人に任命した。

  遺産の残りは、グリーン名誉大佐とウィルクス夫人の間で分けられた。それぞれの部分は10年の信託に設定された。
もし2人が生きていれば、その期間満了の時、制限なく2人にその分け前が渡される
もし2人のうちのどちらかが死んでいれば、その子に渡される
もし2人のうちのどちらかが10年以内に子供無しに死ねば、その取り分は、残ったほうに渡される
とグリーン夫人は決めた。この条項は、もちろん、ヘティが生前、かくも粘り強く執着した富を義理の息子や義理の娘に相続させないために考案されたものだ。

  グリーン夫人の死亡時点の資産総額は1億ドルを超えると見積もられた。グリーン夫人は先見の明をもって、息子と娘を共同の遺言執行人、遺産管理人とし、目録と資産評価を提出する必要がなく、債券を渡す必要もなく、「説明する必要や検認裁判所の管轄下に置く必要もない」よう手配した。グリーン夫人の死の10年後、信託の期間が満了した時、ネッドは、グリーン夫人の遺産総額を6738万5447ドル59セントとみなす明細書を提出した(その明細書の現金項目は、驚いたことに合計940万1778ドルだった)。ヘティのことを知る者にとっては、これは過小評価に思われた。ベロウズフォールズでは、今でも、グリーン夫人が残した遺産は1億ドルを超えていたと信じられている。

  グリーン夫人のシカゴにおける最後の代理人W・B・フランケンシュタインは、グリーン夫人の資産は1億ドルをかなり超えていたと信じていると言った。フランケンシュタインは、グリーン夫人が7千〜8千区画の不動産を所有していたと見積もった。

  ニューヨーク州とニュージャージー州は、彼らの相続税法の下、グリーン家の不動産の分け前を得るため長く実りのない努力をしたが、この状況でヘティの長年にわたる放浪が大いに報われた。最終的に最高裁判所に持ち込まれた税の訴訟で、グリーン夫人の相続人たちは勝った。ヘティは実際にはバーモント州の住民で、他の州の住民ではないと認定された。1920年、バーモント州は不動産に対する税金5万2986ドルの支払いを受けた。それ以前に、ヘティの相続人たちはバーモント州に5千ドル支払っていた。

  シルビア・アン・ハウランドの死から、彼女の姪ヘティの死までの間に満51年が経過した。シルビアの遺産はヘティの自由にできなかった。その捕鯨によって築かれた財産は、ヘティが死んだとき、ヘティの曽祖父つまり、ヘティが子供の頃に過ごした家の主「ギド叔父さん」の父の子孫の間で分配する必要があった。ギド叔父さんには6人の兄弟、6人の姉妹がいた。そして、グリーン夫人が貧しい親類たちのことを話すとき、彼らの子孫が群れをなしていることについて触れた。信託の清算の退屈な手続きで、ギデオン・ハウランドの合計2250人の子孫のうち、ヘティ・グリーンが死んだ時点で生きていたのは1478人で、そのうち439人に相続権があることが明らかになった。彼らは世界各地に住んでいて、その全員を見つけ出し、また清算に参加する権利が彼らにあることが証明されるまでに何ヶ月もかかった。各人が受け取った遺産の断片は取るに足らないものだった。

  彼らのうち6人は、長年のうちにそれぞれ約2万5千ドルの相続財産を受け取った。そのうちの3人はハウランドの世代に属し、グリーン夫人の母とシルビア・アンのいとこで、グリーン夫人よりも年上だった。他の相続人のうちの何人かは1918年時点の遺産の価値103万40ドル55セントの2万160分の1に相当する金額を受け取ったが、それは75ドルにも満たなかった。グリーン名誉大佐は、この複雑な分配を進める管理人の一人だった。彼とその妹は、真に金を愛した女性へティ・グリーンの偉大な蓄えを相続し、加えてそれぞれギドの遺産の90分の1を受け取った。


ヘティ・グリーン研究
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