第31章 1907年恐慌:見知らぬ人へ100万ドル貸付(前半)

  1906年1月、ジェイコブ・H・シフはニューヨーク商工会議所で次のように語った。「もし、この国の通貨状況が大きく変わらなければ、今までに起こった恐慌は全て子供の遊びにすぎなかったと思えるような酷い恐慌が起こるだろう。」

  1906年の繁栄は向かうところ敵なしに思われた。1901年、5億847万8千ドルの普通株、5億1027万7300ドルの優先株、3億400万ドルの債券でユナイティド・ステイツ・スティール・コーポレーションが設立された時、好景気は一時中断されたが、それ以来、勢いを増した。この時期1000人もの人々が、J・P・モルガンの真似をして、企業を合併しようと努力した。シカゴの百万長者たちは新たに富を築き、並外れて強欲なピッツバーグの百万長者たちは、事業に失敗した。アメリカは大繁栄に向かっているので、株を買う人は誰でも金持ちになれると書かれ、うわさされた。

  ラッセル・セイジは1906年7月に90歳を目前にして死んだ。遺言書が読まれ、1億ドルを超える遺産がセイジの妻の手に渡った時、ヘティ・グリーンは嫉妬に苦しんだ。ヘティはもはや合衆国で一番金持ちの女性ではなくなった。セイジ夫人は一夜にして、その称号を受け継いだ。ヘティ・グリーンは僅差で2位になった。ヘティはそれを妬んだ。ヘティはラッセル・セイジのことを非常に尊敬していた一方、セイジ夫人のことは辛口に批評した。時に、ヘティはラッセルの未亡人は馬鹿だと言った。

  しかし、ラッセル・セイジの死は、グリーン夫人に新たな勝利をもたらすはずだった。ヘティの奇妙な心で測られる数々の力が、この国の信用構造に働いた。1905年、エクイタブル生命保険組合の支配をめぐる争いがあった。アレクサンダー総裁とジェイムズ・ヘイズン・ハイド副総裁はお互いの名前を呼び、口に出さないほうがよいことを言い始めた。

  ハイド氏の行動に対する評価としては、フィラデルフィアの銀行家、ジェイ・クックが悲しみのあまり自社の出納係に抗議した1866年を振り返るのが望ましい。

  昨日、私は、我々の名誉と成功に深い関わりを持つ友人から、あなたが日曜日に大通りで四頭立ての馬車に乗っているのを見たと知らされました。信用はひ弱な植物です。四頭立ての馬車ほど信用を失う愚かな見せびらかしはありません。

  ハイド氏が、時々、歩道から叫んだ1905年、信用は依然としてひ弱な植物だった。ハイド氏は四頭立ての馬車を持ち、その車輪の跡は五番街に通じ、そこから船でニュージャージー道の沼を渡った。タタタという馬車の横柄な警笛は、馬車の上座に座る鋭い髭を生やした保険会社の幹部よりも、黒く縮れた馬蹄髭の男の側に座る美しい淑女の注意をひいた。ハイド氏がシェリーズで豪華な舞踏会を催したのは同じ年だった。フランスの女優レジェンヌは、ルイ14世時代の輿でレストランの舞踏室に担ぎ込まれた。それは黄土色の繻子を着た人々の行列だった。この催しの計画についてハイドを助けたのは、クラレンス・H・マッカイ夫人だった。アリス・ルーズベルト(大統領の娘)が客の一人としてホワイトハウスから来た。ジョージ・グールド夫人が出席した。客は黄金色の椅子に座り、メトロポリタンオペラハウスの楽団が奏でるメヌエットを聴いた。その曲は、かつてフランス王ルイ16世の恋人の耳を喜ばせたものだった。8人の化粧した少女(ニューヨーク社交界で最も美しいと言われた)がニューヨークで最も豊かな人達を父に持つパートナー達の前でおじぎした。それからしばらく後に、チャールズ・エヴァンス・ヒューズはニューヨーク州の側まで戻ってから、このような贅沢な娯楽を可能にする生命保険会社の経営に関して無慈悲な質問をした。

  ハイド氏は祖国を離れ、亡命生活を始めるために船でヨーロッパに渡った。数ヵ月後の1907年1月、チャールズ・エヴァンス・ヒューズはニューヨーク州知事に就任した。その年の春、市場に出回るお金が不足し、株価が下がり始め、3月14日に売り注文が殺到した。1日の取引で、株は10〜25%その価値を失った。

  このような状況に陥ったことについては、数多くの原因があった。メトロポリタン陸上鉄道の捜査が始まり、それに続く暴露のせいで、その会社の株価は127ドルから20ドルに下落した。これらのこと全て、そして、それ以上の事がヘティ・グリーン夫人の意見に織り込まれ、晩春なって、当時、ヘティが泊っていたマディソン郡の宿で知り合った未婚女性へのちょっとした助言となった。

  ある夜、その建物のガスが止まり、2階の下宿人は、誰かが暗い廊下に沿って手探りで歩く音を聞いた。ドアが開き、その下宿人は、手すりにつかまる人を助けるため火が点いたろうそくを渡した。それは、グリーン夫人だった。ヘティは喜んで周囲の安全を確かめ、その若い女性の部屋に入った。ドアが閉められた時、ヘティはその女性に向かって両手を合わせた。羊皮紙のような素晴らしい音がして、グリーン夫人の身体の特徴として一般に言われた豊満な上半身が見えた。

  「もし、ここに持ち込んでいる物を見たら、あんたは驚いただろうね。ちょうど、下町の強欲な銀行から私の持ち物を全て持ち帰ってきたところだったから。」とグリーン夫人は自分の胸をたたいて言った。

  その若い淑女は、当時ニューヨークで2番目に大きい信託会社と言われたニッカーボッカーに関することをグリーン夫人に聞くのは、今がよい機会だと決心した。一瞬、グリーン夫人は、その淑女を鋭く見た。そして、「もし、そこにお金を預けているなら、明日の朝一番に引き出しな。」と言った。
「なぜ。」と淑女が尋ねた。
「そこの行員の見た目が良すぎるからさ。覚えておきな。」とヘティは真面目に言った。

  1907年10月21日の午後遅く、ナショナル・バンク・オブ・コマースが、もはやニッカーボッカーの小切手は受け取らないと発表した。翌朝、男女の群集がニッカーボッカーの入り口に押し寄せた。1万7千人の預金者の中で最も先見の明がある者達は、通りのはるか向こうから窓口へと伸びる整然とした列に並ばされた。出納係は、午前中ずっと、普段よりもゆっくりとお金を手渡した。正午、営業時間の半ばで、ニッカーボッカー信託会社の入口は閉じられた。その大銀行は破産してしまった。

  グリーン夫人が、宿で知り合った友人に語ったような薄っぺらな理由でニッカーボッカーを判断したとは信じられない。真の特別な情報源を裏切ることより、むしろ個人的な偏見を話すことを好んだ可能性が高い。6人の有力な銀行家、一流の金融家が能力の限りを尽くしてグリーン夫人が提起するあらゆる質問に答える準備をしていた。ヘティは、娘にいつも帽子をとってあいさつする若い男について質問したこともあった。

  1908年2月、グリーン夫人はボストンで1907年恐慌について話し合った。ヘティは、自分に対して過剰請求した(とヘティが主張した)法律会社との争いを進めるためにそこに行った。ヘティは、裁判所の審理を待っている時、ボストン・トラベラーの記者、ハワード・ノーブルに次のように話した。

  「私は、3年前から、このような状況になると分かっていました。そして、私がそのことを予言したとの記録もあります。そのとき、私は、金持ちは崖っぷちに近付き、『恐慌』は必然だと言いました。」

  「無視できない兆候がありました。ウォール街の堅実な男達の何人かが私のところに来て、豪邸から自動車まであらゆるものを売つけようとしました。ニューヨーク・セントラル鉄道はひそかに私から高額のお金を借りる交渉をしました。私は、はっとして考え事をしました。ニューヨーク・セントラル鉄道は世界で最も金持ちな会社の一つだと。」

  「資産価値の大膨張が続きました。そして逆回転が始まった時、証券保有者は、市場から現金を調達することが非常に難しいことに気付きました。証券仲介業者や相場師は、一般大衆がこのような状況についての暗示を受けるよりもはるかに早く現金不足を感じ取りました。」

  「私は不吉な前兆を見て、静かに私のお金を呼び戻しました。2〜3の新しい手続きをし、来るべき日に備え、私のドルをできる限り全部、手元に置きました。抵当証券も、可能なものは全て現金に換えました。私は決して不動産は買いません。一番抵当貸付で十分です。」

  「恐慌が来たとき、私は現金を持っていました。そして、私以外に現金を持っていた人はごくわずかでした。その他の人々は『証券』とその『価値』を持っていました。私は現金を持っていて、彼らは私のところに来なければなりませんでした。彼らは群れをなして私のところに来ました。私は、ある者にお金を貸し、また、ある者には貸しませんでした。それは私の特権でした。私はお金の借り手から6%の利子を取りました。その時なら40%の利子が楽に取れたでしょう。しかし、誰が何と言おうと、私は生涯で一度も高利貸しをしたことはありません。そして、私と取引したことがある金持ち達がそのことを最もよく知っています。」

  「金融業者は別として、私は正当な商売に関わる多くの人々を助けました。ニューヨークのほぼ全ての大きな百貨店の経営者が私のところに来て、私は彼らにお金を貸しました。ハリー・ペイン・ホイットニーが私に100万ドルの借金を申し込んだので、貸しました。」

  「私は、ニューヨーク・セントラル鉄道にお金を貸しましたが、ヴァンダービルト家が申し込んできた時には断りました。彼らは少し前に来て、―それは結婚式の前でした―家宝の巨大な宝石が入った長さ5フィートの箱を持ってきました。彼らは、有価証券のようにその宝石を担保にして、私からお金を借りたかったのです。しかし、何てことでしょう、私は、ダイヤモンドのような物については何も知らなかったのです。それが完全に主張されている通りの価値があったとしても、私はダイヤモンドの取引はしません。私は不動産抵当貸付のことは少し知っていますが、宝石のことは知りません。私は宝石の商売はしません。」


ヘティ・グリーン研究
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