第24章 ルイヴィル・アンド・ナッシュヴィル株買占め(後半)

  グリーン夫人は疑問の余地なく、子供の教育に全責任を負っていた。数年の間ヘティは、時々ニューヨークに来たときだけ子供と一緒に過ごす状態だった。ヘティは子供に学校を転々とさせたが、子供は平均以上に勉強ができた。というのは、ヘティの息子ネッドは、フォーダム大学に入学することができ、1888年に20歳で卒業したからだ。シルビアは、マンハッタンヴィルのサクレットハート(聖心)アカデミーに入学した。

  しかし、生粋のジャーナリストが書いた1885年(当時、ネッドは17歳、妹のシルビアは14歳だった)のニューヨークワールドの記事から判断するなら、ヘティの子供が初等教育で身に着けた作法は、ベロウズフォールズの人々にとって謎だった。

  「子供たちはほとんど、あるいは、全く教育を受けていない。昨秋、その一家はニューハンプシャー州チャールズタウンのイーグルホテルに数週間滞在した。この場所(ベロウズフォールズ)の8マイル北、コネチカット川沿いの風光明媚な避暑地だ。そこでグリーン兄妹は初めて学校に通ったといわれている。」

  この記事は、当時、ネッドが身長6フィート以上で、大学入学の準備をしていた事実と矛盾する。ネッド自身が、ベロウズフォールズでフォーダム大学入学の準備をしたと言っていた。この問題に対する1つの答えとして、月明かりの下で母狐が子狐を教育するように、ヘティがひそかに自分で子供を教育したことが考えられる。ヘティは子供をニューヨークの公立学校に通わせようとしなかった。なぜなら、ニューヨークの課税査定人を欺くために長年にわたって念入りに作り上げた不快な作り話が使えなくなってしまうからだ。当時、ヘティは家庭教師を雇っていたことが知られている。

  ヘティの子供の成長を垣間見ることにしよう。ベロウズフォールズの老紳士ライマン・S・ヘイズは、ネッドが足が不自由なため、急行馬車のおもちゃに乗っているのを見た。そのおもちゃのロープを引いていたのは、ポロネーゼの服を着た妹だった。その服は母のお下がりで、余分な所を巻いていた。ヘイズ氏によると、ヘティは身代金目的の誘拐を恐れていた。

  この時期、ネッドは服のことでヘティに反抗した。ネッドは、ズボンの目立つ当て布をジャックナイフで取り除き、その当て布を二度とヘティが使わないように玄関の床下に隠した。それからしばらくして、ネッドは、村のパーティーで着るための服をねだった。ヘティは仕立て屋に行かず、屋根裏に捨ててあった夫のスーツを復活させることにした。ヘティはその黒い服を仕立て直してもらうため、オブライエン嬢の所に持って行った。ヘティとオブライエンはそのスーツをネッドに試着させた。「この服は彼には大きすぎる」とオブライエン嬢は言った。そしてオブライエンは、気乗りしない店員が古着屋のやり方で服の後ろの布をつまみ上げる間に「今時、こんな服を作る人はいませんよ」と言ったのを覚えている。オブライエンによると、当時のヘティの服装は村の話題になった。冬は男の下着を着、特に寒い日は、新聞紙を身にまとった。場合によっては町役場の職員ヘイズからオーバーシューズを借りた。

  ベロウズフォールズのチャールズ・T・アレンは、ネッドの遊び友達だった。アレン氏は、ネッドが仲間内で他のどの子よりも お金を持っていたことを覚えている。ネッドは、老馬デービッドと馬車を使うことを許され、しばしば多くの友達を乗せていた。膝の怪我がもとで野球ができなくなった後、ネッドは、地元の野球基金の熱狂的な出資者になった。アレンによると、ある秋、子供たちは酒造業者の瓶洗いのアルバイトでそれぞれ4〜5セント稼いだ。けんかの最中、ネッドは稼いだお金を落としてしまった。落ち葉がタッカー邸の庭を覆っていたため、見つけられなかった。その夜、近所の人は暗闇の中で動くランタンを見て不審に思った。よく見ると、ネッドがなくした硬貨を探すのをグリーン夫人が手伝っていた。2人が夜遅くまで探したことをアレン氏は覚えている。「夜中だった。」とアレン氏は言った。しかし、アレン氏がある店の事務員だった時、非常にしばしばグリーン夫人を応対したが、グリーン夫人は決して値切らなかった。その時期に勤めていた他の店員たちは、グリーン夫人がいつも値切っていたと強く主張した。特に、請求された金額が他の客と違う場合はそうだった。

  ヘティ・グリーンが心に抱く義務、2人の子供の成長と財産の拡大を両立することは難しかった。ヘティは、ニューヨーク、シカゴ、カリフォルニア、テキサスその他12の州にわたって不動産を所有していた。ヘティは、シルヴィアの耳痛を看護している時、千マイル離れた土地の税に関する訴訟で半狂乱になっていただろう。

  かつて、ヘティがベロウズフォールズのアイランドハウスホテルに住んでいたとき、コールド川の岸で娘と何人かの友達とでパーティーを開くことに決めた。その朝、ヘティは商売上の心配事を忘れようと思い、小旅行に専念した。しかし、状況は一転して、普通でない不幸が訪れた。ヘティが心奪われ、不幸せだったことは容易に想像できる。結局、かなりの延期の後、ヘティは、馬預かり所の従業員のスティルウェルに、ヘティの友人を砂浜まで送り届けた後、引き返してヘティを迎えに来させた。スティルウェルが戻ってきた時、ヘティはほとんど怒り狂っていた。ヘティはこのまま小旅行を続けるべきか、それともニューヨークに行くべきか決めかねているようだった。ヘティの心配事は、ニューヨークの新聞が届かず、その結果、株式市場の記事を見られなかったことによるものだった。

  グリーン夫人に関するスティルウェルの小話は、ベロウズフォールズの歴史家ヘイズによって注意深く記録された。ヘティがよくホテルの一室で自分の服を洗い、洗濯物の束を窓の外に投げた後、1階に降りて、ホテルの窓ガラスに洗濯物を広げて乾かしていたことについて、スティルウェルは事実だと保証した。しかし、ヘティに洗濯係として雇われた女性が流行らせた次の小話のほうがずっと公平だ。グリーン夫人が、洗濯係の賃金を彼女が仕事をやめる準備をするまで値切ったというものだ。グリーン夫人は最後の譲歩として、ペチコートの全部を洗う必要はなく、床や道に触れて汚れる裾の部分だけでよいと断言した。

  ヘイズ氏の記録によると、スティルウェルがよく語っていた別の小話がある。それはヘティが、夜遅く馬預かり所に行った時のことだ。ヘティは非常に興奮し、スティルウェルに馬を手配させ、郵便切手を落としたと思われる所に戻った。ヘティが探していたのは、2セントの切手だった。切手は見つからず、グリーン夫人は鬱々として家に帰った。数時間後、ヘティは馬預かり所のドアをたたいて、スティルウェルを起こし、翌朝の捜索の指示を取り消した。ヘティは幸せそうに微笑んでいた。なぜなら、着替えの時、服の中から切手を見つけたからだ。

  スティルウェルは、村で評判の有名人だ。スティルウェルは自分自身のことを才能ある話し手だと思っていた。そして、スティルウェルは聞き手の興味を引くため、ヘティに関する話を脚色した可能性がある。確かにスティルウェルは、雇い主のヘティのために多くの仕事をした。ヘティが都会に行った時の馬の世話、ヘティの飼い犬の世話、そして、その他ヘティが留守の自宅に放置しておけない所有物の管理をした。

  以前、ヘティがニューヨークに行った時、デービッドの馬小屋使用料をぐんと値切った。ヘティが不在の間にベロウズフォールズでエピゾーティックと呼ばれる謎めいた馬の疫病が流行した。スティルウェルは馬の治療のため88セントを使い、グリーン夫人が戻った時、治療行為のおかげで老馬デービッドの命が助かったと説明した。しかし、ヘティは請求の支払いをしようとしなかった。ヘティは、デービッドがやせたのは、スティルウェルがエサを十分やらなかったからだと言った。

  ある年の春、スティルウェルは、ヘティが飼っていたニューファンドランド犬の世話を放棄したためヘティとけんかになった。ヘティは旅行で村を立つ前、ジュノーという名の犬を注意深く世話するようスティルウェルに言い含めた。村のお節介屋が、スティルウェルが犬の世話を怠けているとの手紙をヘティに送った。それはジュノーではなく、村の雑種犬のことだった。

  ヘティは、スティルウェルに悪意のある手紙を送り、ジュノーをニューヨークにいるヘティの許へ送り届けるよう指令した。 ジュノーは4匹の子犬を産み、それぞれが25ドルで売れた。そしてヘティが態度をやわらげたとき、スティルウェルはジュノーをヘティの許に送り届けた。スティルウェルは、ヘティが、子犬を産ませるために素晴らしい血統の犬を仕入れ、犬の相場が上がった時にジュノーも売却したとの印象を受けた。

  ヘティの子供たちが人格形成期を過ごした村、ベロウズフォールズの人々が、ヘティについて覚えている事柄はこういったものだ。 にもかかわらず、ヘティは村人から好かれていた。ヘティが村を出るたび、村人たちはヘティがウォール街とかいう場所に行っていると思い込んだ。ヘティが戻ってくるたび、村人たちは、当然のようにヘティがさらに金持ちになったと思い込んだ。しかし村人たちは、ヘティの富または権力の大きさについて正当に評価していなかった。40万ドル以上のお金をアディソン・カマックからもぎ取る冒険を終えて家に帰った後、ヘティは、スティルウェルに小言を言うようになった。それは、スティルウェルが長い馬屋の列の外に馬糞を熊手で投げ捨てることに対して、デービッドの売値が下がるとの内容だった。村人たちは、ヘティは変わった人だと思った。

  ヘティは、村のある貯蔵庫に途方もない数の宝石を蓄えた。ベロウズフォールズに蓄えられた宝石については、あらゆる種類の伝説がささやかれた。その量は1ブッシェルのかごを満たすといわれた。快晴の日の海のように青いサファイア、望遠鏡で見た星々のように輝くダイヤモンド、鯨の鮮血よりも赤いルビー、バーモント州の村々と世界を隔てる急勾配の草深い丘のように緑のエメラルドがあった。真珠もあった。ヘティは、後年ロッキングハムの判事になったT・E・オブライエンに宝石を全部見せた。オブライエンはヘティがどこで宝石を手に入れたのか知りたがった。

  「いくつかは相続で、多くのものは取引で」とヘティは説明した。

  盗難防止のため宝石の隠し場所の鍵穴をパテで埋め、その上に封印紙を貼るのがヘティの習慣だったとオブライエン氏は言った。


ヘティ・グリーン研究
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