第22章 ヘティ、夫を蹴落とす(後半)第1章で、へティが、預金55万6581ドル33セントをケミカル・ナショナル銀行にただちに送金するよう要求して、ジョン・J・シスコ・アンド・サン銀行を債務不履行に追い込んだいきさつについて述べた。会社側は、へティが本気であると悟り、送金を指示した。その日、株式市場には何の影響もなかった。ジェイ・グールドが、シスコ事件は限定的なもので、下がった株は全部買うつもりだと声明したので、翌朝までに恐慌は鎮められた。シスコ銀行とヘティの交渉は2週間続いた。債務不履行に陥った会社の代理人に任命されたルイス・メイは、抜け目のない法律事務所ドス・パソス・ブラザースから助言を受けていた。数年後、メイは公然と、ドス・パソス・ブラザーズに信用供与した。それは、ヘティに夫の負債を支払わせたことの見返りだった。 倒産の約9ヶ月前、先代のジョン・J・シスコが死んだ。シスコは父の昔からの友人だったため、 ヘティはシスコを強く信頼していた。その信頼の強さは、ヘティがシスコ銀行に2500万ドルの株式、債券、抵当証書を預けた事実にあらわれている。シスコ銀行がへティのために預かっていた証券は、金庫室をいっぱいにし、さらに現在も、あらゆるニューヨークの銀行から入ってくる利子などで毎年数千ドルずつ増え続けている。
父の死後、20年間にわたって、ヘティは絶えず、その金庫室に富を追加し続けた。銀行の前のブロードウェイ駅から、大きな荷物を腕に下げてヘティが降りた場所は、ウォール街59番地だった。シスコはその時、窓から外を見ていた。数分後、ヘティが銀行に入った時、シスコは、ヘティが20万ドルの債券が入った束を持ち運び、銀行に預けようとしていることに気付いた。そのときシスコは旧友の娘であるヘティに、そのような用事に公共の馬車を使うのは危険だと言った。 シスコの死後、彼の事業は息子ジョン・J・シスコとフレデリック・W・フートに受け継がれた。フートは二代目シスコより年上で、ウォール街での経験を買われ、シスコ銀行に雇われた。エドワード・グリーンは、シスコ銀行に証券口座を持つだけでなく、利益を平等に分け合う共同経営で投機をしていた。しかし、利益はなく損失のみがあった。破綻した後、エドワードが様々取引で損したことが新聞で報じられた。その中で最も大きな損失は、ジェイムズ・R・キーンのアヘン買占めに参加したことによるもので、その損失額は200万ドルだと言われている。 シスコ銀行倒産の知らせを受けて、ベロウズ・フォールズを立ち、ニューヨークに来たとき、ヘティは夫の負債を支払うつもりは全然なかった。ヘティの目的は、父が死んだときから無料で保護預りしてもらっていた、絶え間なく富を生み出す証券の詰まった宝箱をより多く持ち出すことだった。その方法は明らかではないが、メイ氏はどうにか、ヘティを脅すことに成功した。この交渉でメイを助けた有能な補佐役が、弁護士ジョン・R・ドス・パソスとベンジャミン・フランクリン・ドス・パソスだった。この2人の頭の切れる弁護士は、ヘティの結婚契約を根拠にして、ヘティは夫の負債を支払わなければならないと説得した。 当時、エドワードが巻き込まれた投機に、二代目シスコとフートも巻き込まれていた。この3人が共同して行った取引が、まさに銀行の債務不履行を招いた。全ての預金者から訴えられる恐れがあると言って、メイとドス・パソス・ブラザーズがヘティを説得したことは確かだ。破産した時、エドワードはシスコ銀行から70万2159ドル4セント借りていた。負債を帳消しにするため、ヘティは、42万2143ドル22セントの小切手をメイに渡し、見返りにエドワードが取引口座の担保として銀行に預けていたものを受け取った。ヘティの小切手の額面は、担保物件の時価に相当した。負債を相殺するためヘティはメイに、シスコ銀行に対するヘティの預金28万15ドル87セントの領収書を渡した。この合計が、夫の投機のせいでヘティが受けた損害の総額に相当した。ヘティの手元に預金27万6566ドル46セント(55万6581ドル33セント−28万15ドル87セント)が残った。結局、ヘティは約75%を取り戻した。この損失は、公平な第三者から見れば、エドワードのせいではなかった。しかし、ヘティは、必ずしも公平ではなかった。 その後数年間、ヘティはルイス・メイに対する復讐の機会を探し続けた。ヘティがエドワードの負債を支払った数ヵ月後、メイは裁判所での陳述でヘティを侮辱した。メイは、正当性が疑わしい要求をして、ヘティをだまして夫の負債を支払わせたことが後になって明らかになった。シスコ銀行の債権者の一人ジョン・ダウニーは、管財人メイが債務不履行に陥った銀行の資産を浪費したと裁判所に訴えた。高等裁判所は聴聞会を運営するため、補助裁判官を任命した。補助裁判官はウィリアム・S・ケイリーという名の弁護士だった。ダウニーの訴えはシスコ銀行の全ての債権者の関心事だった。債権者の中の多くは聴聞会に出席した。ヘティにも通知が届いたが、出席せず、聴聞会の経過に関する新聞記事を読むだけだった。
ある日、ヘティは自身に関する新聞記事を読んでいた。 もし、メイが満足していたとしたら、それは、ヘティ・グリーンのことを知らなかったからだ。ヘティは、時期を待ち、債権者のメイに対する訴訟が却下されてからずっと後に訴訟を起こした。ウィリアム・S・ケイリーが、事件に関する補助裁判官として、メイ氏の収支報告書を調査し、収支報告書を訂正するよう高等裁判所に意見しようとしてから、ヘティは訴訟を起こした。ヘティが介入し、事件の解決を妨げたとき、シスコ銀行の預金以外にお金がない債権者は、75%のお金が返ってくることを期待していた。そして、メイは、管財人としての責任から解放され、報酬を受け取りたいと強く望んでいた。 ヘティの異議は、1887年1月14日に提出された。その時から、1888年の夏の盛りまで、メイ氏は、絶え間なく憤りつづけた。ヘティは、メイが違法な手数料の徴収をはじめとする数々の不正行為をしたと訴えた。ヘティは、メイがドス・パソス・ブラザーズに手数料2万7千ドルを支払ったとき、高すぎると反対した。もしも、メイ氏がシスコ銀行の資産を浪費しなかったら、預金者その他の債権者は75%より多くの分配を受けられたとヘティは言った。訴訟を再開するため、ヘティは、自分の主張を立証できなければ、訴訟費用を支払うと約束した。結局、ヘティは敗訴し、1万〜1万5千ドル支払わなければならなかった。しかし、裁判に関する新聞記事や速記録をみると、ヘティは、心から幸せな時間を過ごしたと推測される。
補助裁判官ケイリーの事務所で何度も聴聞会が開かれた。ヘティは、その主導権を握った。ヘティの弁護士は、ヘティが怪しげな証人達にたいして尋問を行うので、恥ずかしさのあまり、何度も座って赤面した。 ヘティは二代目シスコに対する尋問を続けた。「あなたとフートが一緒に馬車に乗ったとき、そして、あなた自身の証言によると、翌日、ドス・パソスに私を攻撃するように仕向けたとき、あなたは、私の父に対してしたように私を殺そうとしませんでしたか。あなたは、心臓の持病を持つ私を殺して、お金を全部奪おうと思いませんでしたか。」 ヘティの尋問を止めようとする必死の努力も無駄だった。補助裁判官と弁護士全員が異議を唱えた。しかし、それよりヘティの声の方が大きかった。 「私はただ、これはちょっとしたお遊びなのかと彼に聞いているだけです。この国の人々は私の命には価値がないと思っているのでしょうか。私はこの考えを彼に伝えたいだけです。」 ヘティは相手を動揺させる努力を続けた。しかし、ついに、この不明確な告訴の全ては、ヘティの弁護士ネルソン・スミスから補助裁判官ケイリ−に提出された文書によって取り下げられた。補助裁判官が法廷に提出した報告書によると、メイは、シスコ銀行の破産管財人として、310万9315ドル43セントを受け取り305万3861ドル69セントを支払った。そして、彼の手元には4万1986ドル97セントが残った。 この訴訟でヘティが言ったとされる毒舌の記録の中で、特筆すべきことが2つある。1つは、ヘティはシスコ銀行の破産について、コリス・P・ハンティントンに責任があると信じていたことだ。ハンティントンはヒューストン・アンド・テキサス・セントラル鉄道を支配し、この鉄道会社の債券の利子の支払いが滞ったことが、シスコ銀行をひどく苦しめた。シスコ銀行は、ヒューストン・アンド・テキサス・セントラル鉄道の債券を所有していた。債権の価格は突然、急速に下落し、シスコ銀行の経営は不安定になった。ヘティの預金引出し要求は、シスコ銀行破綻を引き起こした最後の一押しに過ぎない。以後ずっと、ヘティ・グリーンはコリス・P・ハンティントンを恨み続けた。ヘティの考えでは、ヘティを悩ます陰謀家達をハンティントンが組織したことになっていた。ヘティは父がベッドで首を絞められて殺されたと信じていた。ヘティはまた、叔母シルビア・アン・ホウランドが毒殺されたと信じていた。ヘティは自身が経験した不運な出来事は全て陰謀家のしわざだと信じていた。ヘティの息子ネッドが怪我をした後、ヘティが事故の合理的な説明を信じていた期間は長くなかった。(やがて陰謀のせいだと信じるようになった。)数々の陰謀とその対策に追われてヘティの心は傷つき、恐怖が増すごとに財布のひもを締めていった。 老いた貧しいエドワードは、ルイヴィル・アンド・ナッシュヴィル鉄道を支配していた時に買った馬車と2頭の良馬を売却させられた。ベロウズ・フォールズのグリーン家にはデービッドという名の老いた馬が残った。 ヘティの友人のハーバート・P・パンクロフト夫人は言った。「デービッドは、ベロウズ・フォールズで有名でした。私はいつも、大男のエドワードが馬車の前の席に座っていた様子を思い出します。」 エドワードは、ベロウズ・フォールズの豪邸に、7フィートの身長に合わせた特注のベッドを持っていたが、馬車は自身の高い身長に合っていなかった。エドワードが背筋を伸ばして座ると、彼の帽子は天井に当たり、押し潰された。村人達にはそれが面白く、又は痛々しく見えた。 落ち着いた老馬デービットについての思い出は、エドワードがシスコ銀行倒産後もしばらく家にとどまっていたことの証拠だ。ヘティは補助裁判官ケイリーの前で夫について語った。
「私の夫は全くの役立たずさ。重荷でしかない。彼と結婚しなければよかった。」 エドワードは昼間、ニューヨークの5番街のクラブにいることが多かった。時々、通りかかったヘティと顔を合わせた。エドワードはクラブの外に出て、多くの点についてヘティと議論した。そして、2人とも嫌な思いをすることになった。夜、エドワードは予約済みの部屋に泊まった。ヘティは、しばしば、家を出て宿に泊まった。次第にウォール街の人々は、ヘティとエドワードが離婚したと考えるようになった。ヘティはラッセル・セイジに好意を持つようになった。セイジについてヘティはしばしば、「私の知る限りでは、ただ一人の賢明な男」だと言った。 |
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