第20章 アメリカに帰る(後半)

  ヘティが初めて姑の家を訪れたすぐ後、ベロウズ・フォールズの人々は、ヘティが 取引をする様子を見ることになった。グリーン家で馬と馬車が必要になった。 ヘティは、自分が買いに行くと強く主張した。サクストンズ・リバー村の近くで、 上部に房飾りがついた手提げ袋が売られていた。ヘティは手提げ袋を買ったが、房はちぎって 返した。年老いた馬と馬車が売られていた。ヘティは、その馬と馬車は充分使えると判断した。 売り手は200ドルだと言った。ヘティは心の中で100ドルが相場だと結論づけたが、 何も言わずにその場を去った。ヘティは数日を費やして情報を集め、売り手のところに戻った。 そして、取引が成立し、ヘティは馬と馬車を60ドルで買った。

   ヘティは、後で知人に自慢して言った、「私は、売り手に恨みを持っている人のところに 行って、その馬と馬車の欠点を全部聞き出した。その知識で売り手の言い値を60ドルに 下げさせることに成功した。そして、それは私が最初に売り手に会ったときに、 私が支払ってもいいと思った金額よりも40ドル安かった。」

 うわさの題材になるような、この種の出来事が起こるたび、エドワードはいらいらした。 そして、そういった出来事は、エドワードの母にとっても苦い屈辱だった。姑の方の グリーン夫人は、長年にわたって地域社会の重要な構成員だった。グリーン夫人は、 1803年にナサニエル・タッカーとキャサリン・タッカーの長女としてその村で生まれた。 タッカー家は、覆い付きの橋を所有し、通行料を取っていた(覆いが付いているのは、 家畜が川を恐れて暴れないようにするため)。その橋は、コネチカット川に沿った有料道路 につながり、その有料道路はニューハンプシャーに通じた。 カナダとボストンを結ぶこの道を、百年以上にわたって様々な行列が行き交った。 インディアンのアベナキ族の 最後の人々が、この日陰の多い道を歩いて通った。岩だらけの峡谷を通る道は、 洞窟のようになっていた。4頭立ての駅馬車が、何世代にもわたって、 厳しい時刻表に従い、音を立てて進み続けた。 その橋は完成してからまもなく、グリーン夫人の祖父、ゲイヤーの所有になった。 その橋の所有権は、ヴァンダービルトが所有したスタテン島連絡船の所有権と同じ種類の 重要性をもった。ベロウズ・フォールズ、サクストンリバー、ロッキングハム、キャンブリッジポート、バートンズヴィルの村々が含まれた『バーモント州ロッキングハムの歴史』の中で、 ライマン・シンプソン・ヘイズはこの古い橋について多くの興味深い事実を語っている。 ヘティの夫エドワードは、ある事件をヘイズに話した。エドワードはゲイヤーのひ孫にあたる。 その事件は、橋がヘティの義理の母の所有物になった経緯に関するものだ。

 ヘイル氏は、人生のほとんどの期間、金持ちだったが、橋を建てた後、苦境に陥った。 そして、金持ちのイギリス人、フレデリック・W・ゲイヤーが橋を抵当に取った。 ゲイヤーは夏の間、橋の東端の、後年「タッカーマンション」として知られる場所で過ごす 習慣があった。ゲイヤー氏の冬の住居と事務所はボストンにあった。その橋は利回りのよい 不動産なので、ゲイヤー氏は長年にわたって、その橋の所有権を欲しがっていた。 しかし、ヘイル氏は決して橋の所有権を手放そうとしなかった。その抵当権は、支払いが滞ると 橋が抵当権者のものになる類のもので、期日までに全ての借金が支払われることが 重要だった。ヘイル氏は、期日までに全ての借金に相当する金額がボストンに届くよう、 大変な努力をしてお金を集めた。

 ヘイル氏は息子に送金を任せ、息子は駅馬車に乗って行った。道中のホテルに止まった時、 息子は数年前から別居していた妻と会った。2人は、そのホテルで昔のことを話し合い、 仲直りした。しかし、彼は喜びのあまり義務を忘れ、借金の支払期日に間に合わなく なってしまった。彼は期日の翌日に、ゲイヤー氏の事務所に駆け込んだ。しかし、「お金は受け取れない、ヘイル氏は返済の期日に遅れたせいで橋を手放した。」と告げられた。

 ゲイヤー氏はこうして橋の所有権を手に入れ、1820年に死ぬまで持ち続けた。形見分けの結果、ナサニエル・タッカーと結婚していた娘のアンナが橋を相続した。

 ヘティは、この橋のいきさつを知っていた。そして、高く評価したに違いない。夫の抜け目ない 先祖であるゲイヤーが、ヘティの曽祖父のアイザック・ホウランド・ジュニアと一緒に取引 する事をどれほど恐れたかということにさえ思いめぐらせたかも知れない。ヘティが ベロウズ・フォールズに移り住んだ時、夫エドワードが橋を所有していたので、ヘティはその橋に興味を持った。エドワードはヘティにゲイヤーの他の相続人であるタッカー夫妻にも興味を持たせた。 タッカー夫妻はすでに死んでいた。エドワードは1880年まで橋を所有し続けたので、 初めてベロウズ・フォールズで過ごした年にヘティが遠出したとき、通行料なしでニューハンプシャーに行くことができた。結局、エドワードはウォール街で投機するための資金をより多く手に入れるため、橋を売った。

 グリーンの母は、橋を誇りに思い、息子を誇りに思い、家族全員を誇りに思っていた。 たとえ、義理の娘の奇行をメイドのメアリー・クレイが恥ずかしがっていたとしてもだ。 しかし、メアリー・クレイはいつも、ヘティの奇行を恥じるあまり、御主人様の死期が早くなった と主張した。屈辱そのものは、致命的な苦しみではない。しかし、屈辱が激しいとき、 老女の生きる意欲をぬぐい去ることもありうる。エドワードの母は、1875年に72歳で死に、先祖代々の墓があるベロウズ・フォールズのエピスコパル教会の土地に葬られた。

 エドワードの姪のアグネス・エルメンドルフの証言は、ヘティに対して、より公平だ。 アグネス・エルメンドルフは、エドワードの姉妹のヘンリアンナ・エルメンドルフと ジョン・J・エルメンドルフ牧師の間に生まれた12人の子どものうちの1人だ。 ジョン・J・エルメンドルフは、中西部、ラシーン、ウィスコンシン、シカゴで説教を したことがあった。長女であるアグネスは、グリーン一家がベロウズ・フォールズに住み着いた 1874年の時点で19歳で、ベロウズ・フォールズ学校の初等部の教師をしていた。もしも、 当時のベロウズ・フォールズで世論調査をしたとすると、 極端に金持ちなグリーン家はめいのために何かをするべきという考えで全員一致しただろう。 村人は、基本的に他の人々とかなり異なっていた。貧しいが優しく親切な少女がいる一方、 叔父と叔母は、その気になれば、姪のために、妖精がシンデレラに魔法をかけたことを 上回るようなことをすることができた。ロッキングハムの町の教会の様々な補助機関の集会で、 もしも、自分がヘティ・グリーンほど金持ちなら、 アグネス・エルメンドルフのために何か大きなことをするだろうと固く信じる女性たちによって、 キリスト教徒慈善布告が定められた。

 彼女たちは、こう言っただろう「血は水よりも濃い。」と。これらの淑女たちは、自分と 夫の財産を、子供達や富裕でない親類に分け与える特権をやや控えめに行使することが できたと思われる。村の全ての人が、エドワードは母や姉妹や甥、姪に対して、ヘティより 気前がいいことを知っていた。しかし、それは村人たちを喜ばせるのに充分ではなかった。 村人たちは若い教師のために、何か劇的なこと、何か壮大なことがなされることを望んだ。 村人たちは失望した。

 アグネス・エルメンドルフは教師を続けた。しかし、アグネスは、叔母のヘティと親しかった。 アグネスは、ロンドン、パリ、ニューヨークに関する数々の魅惑的な話をヘティから聞いた。 ヘティにとって、お金のことはヘティ自身の問題とみなす多くの人々は親しみやすかった。 同様に、アグネスも親しみやすいことにヘティは気づいた。それは、ヘティがお金を 蓄えていたブルービアードの戸棚を、アグネスが尊重したからであり、また、 アグネスがヘティにいつも親切に接し、アグネスがそのことを公言してはばからなかった からだ。アグネスには1つだけ不満があった。それは、ヘティがアグネスの祖母からもらった 家具を配置するときの作法に関することだった。

   メアリー・クレイは、葬式の後すぐにヘティの荷造りを手伝った。銀、ガラス、陶磁器 その他の家宝が、一緒に梱包された。そのとき、メアリー・クレイがエドワード・グリーンの せいにしたであろう無礼な行為が起こった。葬式の後、初の食事が、エドワードの母の家で 給仕された時、エドワードは、ひび割れたタンブラー(ガラスのコップ)で飲み始めた。 そのとき、エドワードは、いつも使っているナイフとフォークの代わりに、包丁と料理用フォークが出されていることに気づいた。全ての皿の大きさが台所に合わせられ、食堂には 合わないことに気づいた。このことについてエドワードは理由を尋ねた。ヘティは、 他の食器は普段使うのには小さすぎると説明した。エドワードは絶句した。エドワードは 毛深い手で、ひび割れたタンブラーをきつく握り締めた。エドワードは長い腕を後ろに引いて、 タンブラーを投げつけた。タンブラーは食堂を越えて飛び、台所の壁に当たって粉々になった。 そして、エドワードは食卓から立ち去った。

 メアリーは、グリーン夫妻の性格の不一致が明らかになってきた時期の出来事をもうひとつ 思い出して語った。エドワードは、しばしばベロウズ・フォールズとニューヨークの間を 行き来した。ヘティは、エドワードのために荷造りをした。その仕事は、エドワードが 独身だった頃、長年にわたって使用人がしていたものだ。ヘティはエドワードが家を 出た後、雨が降った時のためのズボンを持たずに出かけていることに気づいた。 ヘティはズボンを腕に掛けてエドワードを追って駅まで行った。エドワードはヘティに 礼を言い、ズボンを受け取った。しかし、列車が駅を出て橋を渡るとき、エドワードは、 ズボンを運河に投げ捨てた。内心、エドワードはヘティに対して怒っていたので、 ボストン茶会事件のような行動に出たのだ。その日の夜までに、そのことが、 ベロウズ・フォールズの村人全員に知られてしまった。

 結局、メアリー・クレイとヘティはけんかをし、仲直りできないまま、メアリー・クレイは、 かなり長く勤めた家を離れた。しかし、メアリー・クレイは立ち去る前、ヘティに メアリー・クレイの持ち物を全て探すよう求めた。これは、後でメアリー・クレイが グリーン家のものを盗んだと告訴されることを防ぐためだ。メアリーはヘティに負けないぐらい 舌鋒鋭かった。このアイルランド人のメイドの暴言が余りにひどいので、ヘティは 支払うべき給料の支払いを断った。結局、メアリーは、エドワードから給料を徴収した。 エドワードは、このことをヘティに知らせないで欲しいとメアリーに頼んだ。 メアリーはグリーン家を離れることを決意した理由を語った。それは、満足な食事を 与えられず、食欲を満たすため、しばしば実家に帰る必要があったからだ。 このような、当時、村人の好奇心を満たした噂話が郷土史家ライマン・ヘイズによって 収集され、町の記録の貴重な一片として綴じられた。

 1876年に、アグネスはヘティに対して腹を立てるようになった。そのとき、 グリーン一家は、冬を過ごすためにニューヨークに行く準備をしていた。そして、ヘティは、 義理の母の所有物を処分しようと企てていた。ヘティは、義理の母の所有物を処分するために 競売を行うことに決めたとアグネスに言い、競売の事務をアグネスに頼んだ。アグネスは 衝撃を受け、ヘティの計画を冷酷な陰謀とみなした。そして、はるかウィスコンシンにいる アグネスの母が競売のことを知ったらどんなに気分を害するだろうと思い、 アグネスは、競売の一切の事務に関わることを断った。にもかかわらず、ヘティは 競売の計画を進めた。けれども、ヘティが、ベロウズ・フォールズとその周囲の田舎に 愛着を持っていると信じるに足る理由がある。ヘティはもちろん、夫が所有している村内の 資産の価値を知り尽くしていた。実際、エドワード・ヘンリー・グリーンが、母から 相続した財産のいくつかを妻であるヘティに譲ったのはこのときだった。 エドワードは、有料の橋と、先祖が創設を助けたイマニュエル・エピスコパル教会の庭の墓地は 自分の名義のままにしておいた。

 その生涯の中で、グリーン夫妻は、ベロウズ・フォールズにある不動産の所有権を 夫婦間で転々とさせた。1885年にシスコ銀行が倒産したときの最後の所有権移転を 除き、その理由ははっきりしない。シスコ銀行が倒産したとき、エドワードはヘティに 与えた損害を埋め合わせようとした。ヘティは、遺産管理者バーリングに不動産を買うことを 勧めた。そして、エドワードが墓地を手放し、ヘティの父の遺産の一部にする旨の証書に 夫妻は署名した。エドワードがバーリングから受け取ったお金は、全て賠償金として ヘティに支払われた。建物の不動産収入は、バーリングがいくらかの手数料を受け取った上で、 ヘティの手に渡った。

 後年アグネスは、エドワードが破産したのは、全部へティのせいだという話を、 ベロウズ・フォールズで他の人と一緒に聞いた。ベロウズ・フォールズの人々は、 ヘティがわざと夫を破産させたと言っていた。 ヘティは、うわさに便乗して、夫を破産させたようなことを言って楽しんだ。 ヘティは、ルイヴィル・アンド・ナッシュヴィル鉄道株の空売りをエドワードに勧めたが、 聞き入れなかったと何人かの友人に話した。また、ヘティは、エドワードがルイヴィル・アンド・ナッシュヴィル株の空売りをしていることを承知の上で、ルイヴィル・アンド・ナッシュヴィル株を買い、エドワードの儲けがなくなるところまで株価を吊り上げたとも話した。 別の日には、ヘティは、ウォール街でエドワードの財産を奪い取った人々がどれだけ邪悪 かを話して楽しんだ。ヘティは株取引の仕組みを完全に理解していたので、 即興でこのような作り話をしたと思われる。もし、ヘティが言ったことを本当だとするなら、 エドワードがヘティの財産をあえて危険にさらしたせいで、エドワードは一文無しになり、 その時、ヘティはエドワードを見捨てたと言っていることになる。実際のところ、 エドワードの行動によって、ヘティを苦しめた最も大きな脅威のうちの一つが引き起こされた。 その脅威とは、ヘティ自身が命よりも大事だと思っている財産が他の人の手に渡った 恐るべき48時間のことだ。

   その事件が起こる直前に、もう一つの恐ろしいことが起こった。それは、ヘティの息子 ネッドのささいな怪我が原因だったと思われる。


ヘティ・グリーン研究
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