第20章 アメリカに帰る(前半)

 エドワード・グリーンの妻についての驚くべき伝説が、ベロウズ・フォールズで 語り継がれている。1874年初め、ヘンリー・アトキンソン・グリーン夫人が息子とその家族をもてなす 準備をしているとのうわさで、村中が騒ぎたった。ヘンリー・アトキンソン・グリーン夫人は、 1863年に夫を亡くしていた。この未亡人が住む家は、ヘンリー通りの控えめな 場所にあり、世界を広く旅し、事業で成功した息子から贈られたものだった。息子はマニラ に住み、毎年母に仕送りした。ベロウズ・フォールズの全ての村人が、グリーン夫人は 気前のいい息子を誇りに思っていると感じ、さらに、グリーン夫人が義理の娘と2人の小さな孫に 初めて対面することに輝かしい期待を持っていることに共感した。アイルランド人の少女、 メアリー・クレイは、グリーン夫人の家のオールワークメイドだった。 メアリー・クレイは、ニューベッドフォードの女相続人(ヘティのこと)による 最初の訪問のため、小さな家を熱狂的に飾りつけた。
(ここでの「グリーン夫人」はヘティの姑)

 グリーンは、故郷の荒野で伝説的人物となっていた。ある人は、グリーンが町の全ての 若者の反抗心を呼び起こすと考えた。町の若者は、店、工場、事務所で働いていたが、 わずかな収入しか得られないので不満を抱いていた。年長者が、転石苔を生ぜずという ことわざを思い出させても無駄だった。百万長者グリーンは、ボストン、マニラ、香港、 ニューヨーク、ロンドン、そして全ヨーロッパを転々とし、場所を変えるごとに豊かに なったらしい。町の裕福な実業家、銀行、貿易会社、干し草、穀物、飼料の店、 荷馬車工場やその他の金が儲かる企業の経営者さえも興奮した。この時グリーンは53歳 だったが、彼らの中には、グリーンと一緒に学校に通ったことがある人も多かった。 そういった人々は、グリーンが以前ベロウズ・ フォールズにいた時と同じように、あえてグリーンのことを姓ではなく名で呼んだ。 しかし今、グリーンは何年も王侯貴族達と交際した後、名家出身の妻を伴って帰ってこようと していた。旧友たちは、ネッド・グリーンは以前と同じように、金遣いが荒く、話し上手 だろうと予言した。それでも、グリーンの妻の外国社交界の雰囲気は、 グリーンの旧友たちとその妻を恐れさせた。その妻のうちの特に社交的な人は、わざわざ グリーン夫人に向かって礼儀正しくおじぎをした。メアリー・クレイは、単なる村の家政婦 ではなかった。エドワード・ヘンリー・グリーン夫妻とその子供たちの訪問の準備のため 余分に働いた。

 ついにその日が来た。その日のことを、メアリー・クレイはいつも思い出す。 P・B・リーンと結婚し、主婦として自分の家の家事をするようになってからでさえ、 メアリー・クレイは、その日の失望について話すのだった。メアリー・クレイは、念入りに 夕食を準備し、食事を出す間、糊のきいた白いエプロンを着るつもりだった。そして、 メアリー・クレイは、ドアを開け客人を家に入れた。メアリーは、人生でこれほどの 衝撃を受けたことがないと常に主張している。メアリーによると、エドワード氏の 金持ちの妻は、メアリーよりも流行遅れの服を着ていた。さらに、エドワード氏の 妻も子供達も手と顔が汚れていた。ニューヨークからの 鉄道旅行で灰とすすがついただけではないような汚れ方だった、とメアリーは主張している。 その主張に反論したで あろう人々が世を去って長い年月が過ぎても、メアリー・クレイは、その日の失望の 小話を披露し続けた。若奥様がぜいたくについて何度も文句を言うので、メアリー・クレイ は怒って、しばらく豪華な夕食を給仕することを拒否したが、(姑の方の)グリーン夫人が、 困った時は助けると言って懇願するので、ついに夕食を給仕することに同意した。

 グリーン一家は、ベロウズ・フォールズに以前とは違った雰囲気をもたらすと期待した 人全員をがっかりさせた。そういった人々は、疑いなく、金色に輝く4頭立て馬車、 ベルベットに金の刺繍をした制服を着た使用人達が見られると期待した。しかし、 彼らが見たものは、以前、東洋から帰ってきた時と変わらない髭面のネッド・グリーン、 ベロウズ・フォールズの大多数の女性より身なりに気をつかわない女性、ぜいたくな 生活をした形跡が少しもない2人の子供だった。

 グリーン一家に、合衆国に帰ることを促したのは、1873年の恐慌だったと思われる。 しかし、ヘティの親類のうちの意地の悪い人々は、7年の経過とマサチューセッツの 法令は関係があると考えた。ユニオンパシフィック鉄道建設と関連するクレディモビリエ 事件を議会が調査したせいで、春の間、株式市場は不安定だった。恐慌はその年の9月、 有力な銀行だったジェイ・クック商会の債務不履行とともに始まった。 ジェイ・クックが南北戦争の間、北軍のために果たした貢献は、モリスが独立戦争の 間アメリカ軍のために果たした貢献と同じ種類のものだった。破産した時、ジェイ・クックは 、合衆国で最も影響力のある銀行家だった。グラント大統領は、ジェイ・クックの 個人的な友人だった。しかも、グラント大統領は、ジェイ・クックが破産した時、 フィラデルフィア郊外のジェイ・クックの別荘に招かれ、宿泊していた。 オバーホルツァーが書いた伝記『南北戦争の金融業者、ジェイ・クック』によると、 困った知らせが次々とニューヨークから電報で届き始めた時、グラントとクックは、 まだ朝食を食べていた。この有力銀行の債務不履行の知らせが届いた時、 ウォール街はちょうど取引開始直後だった。

   ニューヨーク証券取引所で、ウェスタンユニオンは10分で10ポイント値を下げた。 ジェイ・クックの破産は、もとをたどれば鉄道に関することだったので、鉄道株は その他の株よりも急速に下がった。ジェイ・クック商会の破産は、 ノーザンパシフィック鉄道建設のための無理な資金調達が主な原因だった。ジェイ・クック の代理人が、ノーザンパシフィック鉄道の社債をヨーロッパの金融機関に売り込む交渉に 失敗した時、ジェイ・クックは、合衆国北西部の荒野に鉄道を延長するため、 建設業者にますます多くのお金を前貸ししていた。  次の日、恐慌はさらに激しくなった。取引開始の時、フィスク・アンド・ハッチが 債務不履行に陥ったとの知らせが届いた。この債務不履行は、フィスク・アンド・ハッチが、 コリス・P・ハンティントンのセントラルパシフィック鉄道とチェザピーク・アンド・ オハイオ鉄道と関わりがあったせいで起こったと思われた。その日、ニューヨークで、 20もの会社が債務不履行に陥り、フィラデルフィアで12社が債務不履行に陥った。 3日目にはさらに大きな破産が起こった。

(オバーホルツァーが書いたジェイ・クックの伝記からの引用)

 2つの国法銀行と2つの信託会社が潰れた。レイクショア銀行は、175万ドルの コールローンが払えなくなった。ヴァンダービルトと関係が深いユニオン・トラスト・ カンパニーは、時間外営業の後、閉店した。ナショナル・トラスト・カンパニーの 金庫には80万ドルの政府証券があったが、1ドルも借りることができず債務不履行に 陥った。あらゆる会社が疑われた。うわさは、ほとんど全ての会社に影響を与えた。 正午を少し過ぎたころ、証券取引所は閉じられた。それは前代未聞のことだった。 ウォール街全体を完全な破滅から守るために、このような処置をした、と副議長が 説明を求められた時に言った。危機が過ぎるまで、事業は再開されそうになかった。 ウェスタンユニオン株は、相変わらず45ドルで売りに出されていたが、買い手がつかなかった。 このことは、ウェスタンユニオン株が25ドルに下がるよりましだとは言えなかった。 証券取引所は精神病院のようだった。金融機関の債務不履行のため、興奮した株の 買い手と売り手、ごろつき、泥棒を含む大勢のやじうまで金融街を貫く通りはごった返した。 公用の細い道を維持するため、時々これら全ての人々の間を警備員が通り抜けた。 時々刻々と変化する場面に居合わせた人々は、詳しく説明されなくても、事態の深刻さを 理解することができた。その夜、グラント大統領、リチャードソン秘書官と他の数人の政府高官は、 フィフス・アベニュー・ホテルに部屋を確保し、ヴァンダービルト「提督」をはじめ、 金融界、商業界で指導的立場にある多数の人々を呼び出した。その一方で、会議に招かれなかった 大勢の人々も総合基金に知恵を貸すために来た。

 この表は、金融不安が始まってからの動揺を示している。このように、ニューヨーク市場の いくつかの主要な株の価格は、1株あたり30ドルから40ドル下落した。

9月4日9月20日
ニューヨークセントラル鉄道104と8分の789
ロックアイランド鉄道108と8分の786
ウェスタンユニオン
(当時は電報会社・現在は金融業)
92と2分の154と4分の1
ウォーバッシュ鉄道70と4分の142と2分の1
パナマ地峡鉄道117と8分の384
セントラルパシフィック鉄道99と8分の575
セントポール鉄道
(ミルウォーキー鉄道)
5130
ハンニバル・アンド・セントジョセフ鉄道4819
ノースウェスタン鉄道6340
ニューヨーク・アンド・ハーレム鉄道130と4分の1100
ユニオンパシフィック鉄道26と4分の318
オハイオ・アンド・ミシシッピ鉄道38と4分の326と2分の1

 当然、鉄道債も同じような値下がりで苦しんだ。建設中の鉄道の債券と株式は、 債務不履行に陥った金融機関の運命に巻き込まれ、しばらくの間、値が付かなかった。

 そのとき、ヘティ・グリーンはルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル鉄道の株に強い 関心を持っていた。その株は、ジョン・J・シスコがヘティのために買ったものだった。 ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル株は、かなり下落していた。当時、ヘティは、 ロックアイランド鉄道の債券と株式にいくらか投資していたことも知られている。そして、 ヘティは莫大な富を証券の形でシスコ銀行に蓄え、その証券は恐慌で大打撃を受けたと 思われる。当時のヘティの財産がいくらだったか計算することは難しいが、次のことは 信じられる。ヘティの父は、1833年にギド・ホウランドの娘と結婚してから1865年に 死ぬまで、財産を苦労して増やし続けた。そして、父の死後8年の間に財産はさらに増え、ヘティは その財産の唯一の相続人となった。死が間近に迫った時、ブラック・ホーク(ヘティの父のあだ名) は、ヘティに遺言を執行する権限も、遺産を管理する権限も与えないことに決めた。 にもかかわらず、ヘティの財産は一定の速度で増え続けた。その財産の増え方を父が見たら 賞賛し、同時に妬んだだろう。父の遺産のうち400万ドルは、バーリングとデイビスの管理下にあり、 毎年大きな収益を生んだ。130万ドルは、シルビア・アン・ホウランドの遺産で、 1年に6500ドル、ヘティの蓄えに付け加えられた。それらを計算に入れなくても、1873年 の時点でヘティは、父より多くのお金を動かすことができた。その理由は、エドワード・ ヘンリー・グリーンの信用があったからとしか言いようがない。ヘティは、最初、 ニューベッドフォードの波止場の周辺で、父の後についていくことで取引を学んだ。 エドワードは、抜け目がなく大胆な投機家で、金融の教師としてヘティの才能をさらに伸ばすのに ふさわしい人物だった。ヘティは結婚してから15年間、それまで会ったどんな人よりも強く エドワードのことを信用した。まるで女王が首相に政治を任せるように、ヘティはエドワードに 事業を任せた。ヘティは、取引のたびにエドワードに質問し、全ての投資について説明を求めた。 しかし、ほとんどいつもエドワードの判断に従った。

 後日の話だが、ヘティがジョン・J・シスコにエドワードとヘティの財産を混同しないよう繰り返し 警告していたことが明らかになった。ヘティはシスコにヘティの財産はヘティのものであると 警告した。エドワードはジョン・J・シスコ・アンド・サンのニューヨークの事務所で、 まるで会社の一員であるかのように扱われたので、ひょっとするとヘティの警告の手紙を 見たかも知れない。もちろん、これらの事は、エドワードがロンドンから帰り、妻や子供と 一緒にウォール街から遠く離れ、緑の山に閉ざされた故郷に住み着いた後のことだ。

ヘティとエドワードは、恐慌のせいでロンドンを離れた。しかし、ヘティとエドワードが、 信用取引で大損害を受けた人々に対して心を悩ませて祖国に帰ったのか、金融商品を底値で 買うために帰ったのか疑問が残る。しかし、次の事だけは確かだ。 ヘティ・グリーンは、恐慌で株と債券の 価格が底値をつけた時にはいつも、大量に買い込む準備ができていた。 恐慌の原因はいつも、お金の不足である。そして、1865年から死ぬまで、ヘティはいつも 十分なお金を持っていた。後年、ウォール街で、ヘティは「人間レジ(金銭登録機)」と呼ばれた。 ヘティはその方法を次のように説明した。

 「底で買って天井で売るべきです。私は、鉄道株か抵当付き債券を買うのが好きです。 買い手がいないせいで良い物が安値になった時、私は大量に買い、金庫にしまい込みます。 私は市の抵当証券を大量に持っているので、棚がぎゅうぎゅう詰めになっています。 私には、市の抵当証券が他の何よりもよいものと思われます。」

 「私は株式をあまり信じていません。私は決して工業株を買いません。私が好きなのは 鉄道株と不動産株です。投資の決断をする前に、私は、その銘柄に関する全ての種類の 情報を探し求めます。資産形成には、大きな秘密はありません。安く買って高く売る、 節約する、抜け目なく行動する、粘り強くなる、これだけでよいのです。」

 ヘティは、このやり方を抵当証券、1ペック(約9リットル)のじゃがいも、家、馬など 自分が関わる全ての買い物で実行した。お金を節約することに関しては、ヘティはまるで 練習を欠かさない運動選手のように厳しかった。グリーン家では、ヘティは執事を持っていた。 執事は、ヘティの衣食住の世話など、夫に任せることができないような家事をしたが、 執事はヘティに料金を請求しなかった(エドワードが払った?)。 従ってヘティの財産は少しも減らず、途方もなく増えた。その様子を見た人々は、 ヘティの財産の増加を有害だと考えた。なぜなら、ヘティの財産が増えるにつれて、 ヘティはますます悪賢く、執念深く、おしゃべりで、非常識なまでに貧乏を恐れるように なったからだ。

(後半に続く)


ヘティ・グリーン研究
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