第1章 ヘティ・グリーン、ウォール街に来る

 1885年1月、ウォール街59番地にジョン・J・シスコ・アンド・ サン銀行があり、人々から尊敬を受けていた。ジョン・J・シスコは、 南北戦争の間、政府の財政を助け、国債を ウォール街に売り込んだ。その後、ジョン・J・シスコは死んで、彼の息子と、1人のパートナーが 銀行を経営していた。

 当時、預金業がゆっくりと発展していたが、大部分の金融機関は、証券を保管する空間を顧客 に提供する必要があった。ジョン・J・シスコ・アンド・ サンの預金者の中には、金持ちが何人かいたが、エドワード・H・グリーン夫妻はずば抜けて 金持ちだった。

 エドワード・H・グリーンの妻の有価証券は特に多く、証券の束は 大きな金庫の棚を、 いくつも埋め尽くした。彼女の父、エドワード・マット・ロビンソンは 南北戦争の間、ジョン・J・シスコ・アンド・サン銀行の得意先であり続け、 500万ドルを超える有価証券を銀行の金庫に貯め込んだ。 ロビンソンが死んでからの20年間、彼の娘は、銀行に証券 を預け続けた。その証券は、鋼鉄の部屋をぎゅうぎゅう詰めにし、少なくとも 父が所有していた証券の5倍のスペースを占めた。

 事務員と客を分けるガラスの仕切りが、建物の端から端まで及んでいる。 その仕切り越しに、会社の金庫が見える。金庫は、普通の部屋のように大きく、 長方形のドアを持つ。そのドアは夜に閉められる。ドアには、白鳥が 池にいる風景が半分ずつ描かれ、ドアを閉めると1つの風景画になる。 ドアの開き目が、いつも絵に境界線を作った。それは、その芸術作品の 欠点の中の1つだ。しかし、そんなことは重要ではない。ドアの後ろに 置かれているものの方が重要だ。

 暗い宝箱の中に、多くの貴重な紙があった。シカゴの不動産ローンの 証書、ニューヨークの6階建ての建物と8階建ての建物の権利書、国債、 工場、倉庫、鉄道の所有権の証書、借金の証書があった。未亡人が 住んでいるような5番街の不動産信託が入ったマニラ紙の重い封筒に寄り添い 、より豊かな醸造業者が住んでいるような3番街の不動産信託の束がある。 そのすぐそばには、紙幣、金貨、原料の状態の銀がある。

 証券の利子は、街に住む多くの家族への支払いに充てられる。その街の大通りのそばに、 つりあいのとれた一組の馬が尾をつながれている。銀の馬具が騒音をたて、 馬車を引く短い手綱が、馬のつやつやした首を残酷に曲げる。馬車に乗る女性は、 レースのついたきついコルセットのせいで、泡を吹く馬と同じぐらい激しく苦しんでいる。 グリーン夫人は、数十の借家人に不動産を貸していることを証明する証券の束 を、シスコ銀行の大金庫に置いているにもかかわらず、馬車を持っていなかった。

 証券取引所の取引終了の鐘が鳴った後、ウォール街に群がった仲買人は、 グリーン夫人が最も優れた投資家だとうわさした。二人の取引員が、ウォール街の 建物の前面の大理石の壁にもたれて、うわさ話をした。取引所での売りと買いの 衝突ですり減ってしまった靴を人に磨かせている間、彼らはグリーン夫人の名を挙げた。 ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル株とエリー株の不可解な上昇と下落は、 しばしば間違ってこの女性投資家の謎めいた力のせいにされた。グリーン夫人は、 まだ多くの人に知られていなかった。

 弁護士ジョセフ・チョエイトは、時々、グリーン夫人のケチ、貪欲、 悪賢さについての面白い小話を語った。ニューベッドフォード の鯨漁船団からお金が来たと彼は言った。チョエイトは、グリーン夫人が 初めて社交界に出たときからずっと知っていると言った。2代目シスコはもちろん、 グリーン夫人を知っていたが、グリーン夫人のことを話題にしたとき、 それほど注意を払わず、グリーン夫人の奇行をほのめかされても取りあわなかった。

 しかし、ウォール街の取引員のほとんどは、グリーン夫人の夫を知っていた。 彼はワインを嗜む大男だ。グリーンの体重は約250ポンド(112kg)。 身長は群を抜いて高い。彼は、ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル鉄道 の社長を1期3ヶ月つとめたことがあった。その前に、ルイスヴィル・アンド・ ナッシュヴィル鉄道の副社長だったこともあった。グリーンは東洋で20年 近く貿易業に携り、1865年にアメリカに帰ったとき、百万長者として 知られていた。すでにグリーンの妻は、多くのうわさ話の種になっていた。 ある者は彼女をウォール街の女王と呼んだ。その称号をめぐって彼女と 争えるほど、ウォール街で十分な結果を残した女性はいなかった。そしてこれが グリーン夫人に関する伝説の一部になった。

   1885年の初めの経済見通しは、前年ほど悲観的ではなかった、景気対策 が行われないことに人々が失望したことを除けば。大統領選挙に当選したグロバー・ クリーブランドは、1885年1月7日までニューヨーク州知事を辞職 しなかった。悲惨な年―1884年の後、経済不況は社会不安の原因となり、 その社会不安は、大統領選挙でクリーブランドの勝利をもたらした。 ニューイングランドの町は、まだ、工場労働者の賃金の10%削減を 郵便で発表していた。ホッキングバレー(鉄道会社)は、炭鉱労働者の ストライキを恐れていた。小麦価格は、数ヶ月の間、生産者をがっかり させるような水準だった。ストライキと賃金切り下げの情報が、ニューヨーク から、アメリカの多くの地域に電信で伝えられた。鉄道会社は少ししか 収入を得られなかった。ピッツバーグから、アメリカ最大の製鉄会社が、 債務不履行に陥ったとの情報が届いた。オリヴァーブラザーズ・アンド・ フィリップスは、労働者の賃金を1日あたり98セントにして操業しようと 試みた後、債務不履行に陥った。同時に、オリヴァーブラザーズ・アンド・ フィリップスの子会社のオリヴァー・アンド・ロバーツ針金会社は、 工場を閉鎖した。

 ウォール街の取引員は神経質だった。恐慌が再び起こる条件が整っていた。 そして、そのとき、老舗の銀行であるジョン・J・シスコ・アンド・サンは 債権者に利益を譲渡した。

 この行動は、ウォール街の営業日の終わりと同時になるよう注意深く時間設定 されていた。20分後、3人のジョン・J・シスコ・アンド・サンの事務員が、 郡の役所に姿を現し、譲渡の証書を提出した。証書によると、譲渡された 相手の名は、ルイス・メイだった。彼は、ニューヨークの有力なユダヤ人の うちの一人だった。

 この事件の知らせが、ウォール街に届く時にはもう、その日の株式取引が 終了していた。その知らせは遅すぎたため、熱狂的な売りが起こって株価が 下落することはなかった。次の朝、取引が始まる前、ジェイ・グールドが、 シスコ銀行の倒産は限定的なことで、どんなに株価が下がっても株を買う つもりであるとの主張をしたという情報が報道機関に届いた。この情報と、 他の数々の確実な情報が、証券市場を恐慌から守るのに役立った。

 夕方、この不運な出来事は、山の手にある金融街の人々のための保養地 (フィフス・アベニュー・ホテル、ホランド・ハウス、デルモニコ) で広く話し合われた。人々は、ジョン・J・シスコ・アンド・サンの 倒産は、あまり悪い結果をもたらさないと考えたが、一方で、それは 考慮に値する謎だった。ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル鉄道と、 ヒューストン・アンド・テキサス・セントラル鉄道の債券と株が大幅下落 したことが原因だったとの報告があった。人々は少し納得した。その日が 終わった時すでに、ジョン・J・シスコ・アンド・サンの資産は、譲受人の 手にあったにもかかわらず、説明がなされた。

 「エドワード・グリーン夫人が倒産の原因だ。」と債務不履行に陥った 銀行の行員が言った。

 会社が債務不履行に陥る10日ほど前、ケミカル・ナショナル銀行に ただちに預金を送金するようにと指示する内容の手紙が、グリーン夫人 から届いた。その手紙は、グリーン夫人の夫、エドワード・グリーンが 少年時代を過ごした家があるバーモント州ベロウズ・フォールズから 届いた。グリーン夫人は、そこに2人の子供と住んでいた。そのうちの一人は 足の不自由な17歳の男の子で、もう一人は、恥ずかしがりやで神経質な 14歳の女の子だ。

 グリーン夫人は、シスコ銀行に55万6581ドル33セント預金をして いた。さらに、株式、債券、抵当証券、権利書、その他の証券などの巨大な 財産を銀行の金庫に入れていた。それは、もちろん銀行の資産ではなかった。 しかし、グリーン夫人の預金は、グリーン夫人の財産の一部でしかないが、 シスコ銀行にとって欠くことができない部分だった。

   数日間、シスコ銀行の行員は、口座から全ての預金を引き出そうとする 預金者の列に苦しめられ続けた。しかし、その時に引き出された金額を 全部足しても、グリーン夫人が他の銀行に送金するよう指示した額に及ば なかった。

 グリーン夫人は、過去20年間、シスコ銀行の顧客でありつづけていた。 その関係は、25年前にグリーン夫人の父が、シスコ銀行の顧客になったこと にさかのぼる。2代目シスコは、グリーン夫人に手紙を書き、できる限り 親切な言葉を使って、銀行が彼女の要求に応じるつもりがない旨を知らせた。 2代目シスコは、グリーン夫人に、エドワード・グリーンが、シスコ銀行から 70万2159ドル4セント借りていることを知らせた。そのお金は、 確実な処理のために貸されたもので、ルイスヴィル・アンド・ナッシュヴィル 株が担保になっているとグリーン夫人は知らされた。さらに、ルイスヴィル ・アンド・ナッシュヴィルの株価が大幅に下がって、担保として少し不十分 になっているといわれた。そのため、シスコは、グリーン夫人に、全ての 預金を、夫の借金の支払いに充てるよう要求した。

 次のグリーン夫人からの手紙は、怒りにまかせて書かれていた。グリーン 夫人は、先に指示した分と一緒に50万ドルを超える残りの預金もただちに 送金するよう要求した。さもなくば、銀行に対して訴訟を起こすと明言した。 夫の負債に対する責任はないと、グリーン夫人は強く主張した。

 その手紙が届くと、選択の余地は無くなった。同日、メイへの譲渡が なされた。

 数日後、グリーン夫人は、ベロウズ・フォールズからニューヨークに 来た。グリーン夫人は昼行列車で旅した。それは、彼女の習慣なのだが、 200マイル(320km)を超える旅だった。にもかかわらず、グリーン夫人は、 黒と橙の辻馬車で来ることで、ウォール街59番地に驚きと混乱をもたらした。 その日のグリーン夫人にとって、駅馬車も軌道馬車も十分な速さでなかった。 辻馬車が1マイルあたり25セントだったとしても。 (辻馬車cabは現代のタクシー、駅馬車stageは現代のバス、軌道馬車 horse-drawn street carは現代の路面電車に相当する。)

 グリーン夫人は、あたかも父が所有している完全装備の船の、ボンネットを着けた 船首像のように、ガラスの仕切りに沿って歩いた。

 黒い木綿の手袋に包まれた手は、すり切れたレティキュール(手提げ袋)を きつく握り締めた。これと対照的に、グリーン夫人の腹はたるみ、スカートを押した。 グリーン夫人は決してコルセットを着用しなかった。グリーン夫人は、無地の黒い アルパカの服を着ていた。その服の主な長所は、汚れが目立ちにくいことだった。 ぺティコートのひだべり飾りが、大股で歩く足を包む靴下とバルブリガン (布地の名)の下着と、こすれて音をたてた。バーモントはひどい寒さが続いていたが、 グリーン夫人は、ベルベットのドルマンを、まるで旗のように肩から ひるがえらせていた。髪は灰色の筋があり、茶色がかり、急にくねって8の字を 描いた。その髪の上に品のある、ひも無しボンネットが乗っていた。 引き締まったあごの下で結ばれた青いベールが醜い帽子を固定していた。 グリーン夫人の顔は、こういったひどい服装を十分埋め合わせるほど 美しかった。

 丸い首を白い亜麻色のえりが取り巻き、その首の上に実に愛らしい顔があった。 グリーン夫人の目は青く、かつては、上品さ、優雅さを クリスチーヌ・ニールソンと比べられたこともあったが、この時点では太っていた。 1月の風はグリーン夫人の頬を刺し、リンゴのように赤く輝かせた。グリーン夫人 の肌はすべすべで半透明だった。この日、グリーン夫人は51歳の誕生日を少し 過ぎていたが、グリーン夫人が譲受人ルイス・メイの事務所の入り口をまたぐのを 見た男達は、グリーン夫人を40歳と見積った。

   「私のものを取り戻しに来ました。」とグリーン夫人は切り出し、口を結んだ。

 メイは、グリーン夫人に、全ての所有物を渡すことを保証した。当然、グリーン家 の負債を支払うのに充てる分を除いての話だが。まもなく、グリーン夫人は叫び はじめた。最初は単に大声で話すだけだったが、グリーン夫妻の金銭上の意思は 決して一つではないとの趣旨を立証するために力強い言葉を使った。

 グリーン夫人は、債務不履行に陥ったこの銀行の800人以上の債権者の 1人に過ぎないことを知らされた。メイは、債権者全ての世話をする義務を負って いた。グリーン夫人は、他の債権者と同じように扱われようとしていた。 他よりも良くなく、他よりも悪くなく。メイは、グリーン夫人が夫の借金を 払わなければ、グリーン夫人が所有する大量の証券の束を返さないつもりだった。 グリーン夫人は裁判所に訴えると脅した。さらに他の所にも訴えると脅した。 メイは神経質になったが、丁寧に話し続けた。メイの顔は、ドアのガラスに 押しつけられた。他の数人の預金者に、数人の従業員が対応し、新聞記者もいた のをメイは見た。そのとき、グリーン夫人は叫び始め、足踏みし、腕を振った。

 次の日の朝刊で、金持ちのグリーン夫人が、メイ氏の事務所の床に大の字で 横たわり、私の大事な証券を返せ、と泣き叫んだと報じられた。しかし、メイは、 グリーン夫人が大の字で横たわったことを強く否定した。ただし、グリーン夫人 が大変興奮するようになり、グリーン夫人の求めにもかかわらず、メイが 証券を渡さなかったので、グリーン夫人が涙を流して大声で話したことは、 メイも認めた。

 グリーン夫人は5時間にわたって、メイの事務所(つい前日までは、 2代目シスコの事務所だった)に居続けたが、金庫の鍵が閉められるのを見て、 帰った。翌朝、グリーン夫人は戻ってきた。この時は涙は流さなかった。 来る日も来る日も、グリーン夫人は戻ってきて議論と抗議をした。 2週間の交渉の末、グリーン夫人はメイに小切手と領収書を与えた。 小切手の金額は、42万2143ドル22セントで、領収書の金額は、 グリーン夫人が要求した額の半分だった。

 この領収書はシスコ銀行の負債を28万15ドル62セントに減らした。 そして、グリーン夫人は、70万2159ドル4セントの現金同等物を (夫の借金の返済に充てるため)引き渡し、深い悲しみに打ちひしがれた。 グリーン夫人に有価証券が返された。その中には、エドワード・グリーン が差し出した、価格の下がった担保(株券)も含まれていた。

   全ての抵当証書と債券と株券が、グリーン夫人とメイによって 目録と照らし合わせて厳密に調べられた。結局、一枚の利札の漏れもない ことが分かり、グリーン夫人は満足し、有価証券を馬車に持っていった。 グリーン夫人が有価証券の入った箱を馬車に積むのを、6人の事務員が 手伝った。グリーン夫人が乗る馬車に最後の有価証券の束を詰め込むまで、 銀行の警備員が1人、見張りに立った。馬車には、グリーン夫人が、 かろうじて身動きできるほどの隙間しか残らなかった。グリーン夫人は、 御者に指図して馬車をケミカル・ナショナル銀行に走らせた。

 この時、馬車の中にあった証券は、当時の2500万ドルに相当した。 その見積りは推測ではなく、目録が作られ、鑑定されたもので、メイが 持っていた受領書に書かれていたものだ。

 グリーン夫人は財産を取り戻したが、断固とした決意もした。次に 彼女がウォール街に戻った時、ヘティ・グリーンと自称した。破産した エドワード・グリーンは、その後まもなく、ユニオンリーグクラブで 過ごすようになった。18年前のことだが、エドワード・グリーンは、 結婚する前、ユニオンリーグクラブで過ごしたことがあった。 1885年のベロウズ・フォールズの課税額査定人の資料には、 エドワード・グリーンの財産は7ドルと腕時計と記されている。 後年、グリーン夫人は、別居の理由を、財政上のことで夫が グリーン夫人に従わなかったためと説明している。

 以上が、世界中で最も偉大な女性投資家、ヘティ・グリーンの ことを世間に気づかせた金融危機の顛末である。この逸話は、 その後、四半世紀に及ぶ彼女の途方もない金儲けの才能の伝説の 始まりであり、同時にそれと足並みをそろえるような、 ものすごいケチの伝説の始まりでもある。

 ヘティは金儲けの方法は知っていたが、断じてお金を浪費しようと しなかった。


ヘティ・グリーン研究
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